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第七章 星が宿る

 もふもふ、ひょこひょこ。
 薄いピンク色のうさぎのぬいぐるみはベストとズボンという格好で、二本足で立ちながら、エリスなどよりよほど手馴れた様子でモップをかけていた。濡らしたまま放置していた床は、あっという間に乾き、ピカピカになっていく。
 うさぎはバケツと雑巾を持って、玄関から外に出て行った。
 エリスがおそるおそる開いたままの玄関から外を見ると、うさぎは井戸の傍に立ち、汚れた水を芝の上に撒いていた。それから井戸の水を汲み上げて、バケツに移し入れると、うさぎはえっこらえっこらバケツを持ってエリスの佇む玄関まで戻ってきた。
「ダメだぞエリス。あんなじょうたいで、ほったらかしにしちゃ。レスターにおこられちゃうぞ」
 と、うさぎは当然のようにエリスの名を知っていて、小さな男の子の声で話しかけてきた。
「え、あ、う……?ご、ごめんなさい」
「おれはいいけど、レスターはおこりんぼうだからな。ほら、まどをふこう。……?なんで、がくぶちなんて持ってるんだ?」
「あ、えと、なんでもないの……」
 真っ赤になって、エリスは額縁を壁際に立てかけた。
 まさか泥棒と戦おうとしたとは言えない。
「ん、ぞうきん。そっちのまどからな」
 促されて、うさぎのぬいぐるみに絞った雑巾を手渡されるエリス。
「四かくにたたんで、すみっこもわすれずにな。エリスはそうじ、はじめてか?」
「う…うん、そうなの。だから、やり方わからなくて……」
 エリスはあまりない状況下に置かれていながら、普通に答えた。レスターが魔法使いなので、昔から不思議なことにはある程度慣れている。おばけじゃないとわかって、ホッとしたくらいだ。可愛いうさぎさんでよかった、とエリスは常人ならまず思わないことを思った。
(でも、どこかで見たことあるような……?)
 なんだか見覚えのあるうさぎだ。懐かしいような。
「あれ……?」
「どうした?エリス」
 首を傾げる(首がないから頭を傾げる、が正しい)うさぎのぬいぐるみを見つめて、エリスは「あっ」と小さく叫んだ。
「……ニコ?」
 呼ぶと、うさぎは破顔一笑。ぬいぐるみなのに、表情を作れるらしい。
「そうだぞエリス!おれニコだ。おぼえてたんだな、うれしいぞ」
「わぁ……なつかしい!久しぶりだね、ニコ」
 エリスは思わずうさぎ―――――ニコ、と小さな頃に自分がつけた彼の名を呼んで、抱きしめた。うさぎは照れくさそうに身を捩る。
 そのピンク色のぬいぐるみであるニコは、もともとエリスが持っていた子で、対になる白いうさぎもいた。子供の頃、『これで何かあれば連絡しろ』とレスターが彼らに魔法をかけて、エリスが白いウサギに話しかければ、レスターの持ち帰ったピンクのうさぎに声が届くようになっていたのだ。もちろん、逆にレスターがピンクのうさぎに話しかけたら、エリスの持つ白いウサギから彼の声が聞こえてきた。
 結婚してからは、白いうさぎは実家に置いたままになっている。
「でも……、どうして?わたしのところにいるルビィは、ニコみたいに自分でお喋りしなかったし、動いたりもしなかったのに……」
「うん、まあ、それはいろいろあってな。きっとレスターが話すとおもうぞ。ていうか、おれ、ホントはエリスの前でうごくなって言われてたんだ」
「え…?そうなの……?」
「うん、そうだ。でも、見ちゃいられないそうじの仕方だったから……。あとで、レスターにおこられちゃうな。でもおれ、エリスがそうじをはじめようとした時からイヤなよかんがしてたんだ。……ん。ぞうきん、おわったな。それじゃ、また水くんで、ぞうきんあらおうな」
「うん」
 ニコに促されて、エリスはバケツを運ぶ彼の後を雑巾片手に着いて行った。「わたし持つよ?」重そうな姿に申し出たら、ニコに「エリスにもたせたらコワイから、だいじょうぶ。それより戸をあけてくれ」と、もっともなことを言われて、慌てて玄関を開ける。
 ニコはまた、えっちらおっちらバケツを運び、井戸の周りの芝に撒いた。井戸から水を汲み、バケツに入れる。「この水でぞうきんあらえばいい」
「ありがとう、ニコ」
 エリスは微笑んだ。可愛い姿に、思わず自然と口元が綻んだのだ。
 ニコがひとつ頷いた。
「エリス、そうやって、たくさん笑ったほうがいいぞ。レスターみたいにしかめっつらや、かなしそうなのはよくない。しあわせがにげちゃうからな」
「幸せ、逃げちゃう……?」
「うん、おじいちゃんはよくそう言ってたぞ」
 おじいちゃんとは、きっとレスターのおじいさまのことだろう。ということは、ニコは、おじいさまが健在の時から、こんな風に意思を持って動いていたのだろうか。
「レスターは、悲しそうな顔してるの……?」
 しかめ面はいつものことだけど、悲しそうな姿は知らない。おじいさまが亡くなった時、淋しそうな横顔は見たけれど。
 ニコは、余計なことを言った、とばかりに口をへの字にした。
 少し黙ってから、静かに口を開く。
「だいじょぶうだ。いまはしないから。レスター、むかしは今よりぶきっちょで、いつも何かにおこって、かなしいのをごまかしてた。でも、今はもう大人だから、だいじょうぶだ」
「そう……」
 いつも何かに怒って……という言葉に、エリスはどきりとした。
 それは自分に向けられていた感情だ。
 出会ったばかりの頃、エリスは、レスターにこの上もなく毛嫌いされていたのだ。


   *  *  *



 

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