prev / 天使の落下 / next

第七章 星が宿る

 小さなレスターと彼のおじいさまとの会話は、エリスには理解できない点が多かった。
 首を傾げながら見守っていると、また急に周囲の景色に変化が現れる。
 強い風が吹き、とっさに目を瞑ったエリスが再び瞼を開けると、そこはもう部屋の中ではなかった。小さなレスターも、おじいさまもいない。
「え……?」
 エリスは、緑の森を背にした美しい丘に裸足で立っていた。
 目の前に広がるのは、一面の青空。風が吹き、樹木をさわさわと揺らしている。
「ここ……」
 レスターの家はどこにも見当たらない。
 それもそのはず、ここは近所の丘の上だ。幼い頃、両親に連れてきてもらってスケッチを楽しんだ思い出の場所。
 でも、どうしていきなり場面が変わったのだろう。
「あ」
 エリスはその小さな後ろ姿を見つけた瞬間、思わず笑みをこぼした。長い栗色の髪が、ふわふわ風にそよいでいる。
(わたしだ)
 まさか、自分の子供時代まで見ることになるとは思わなかった。
 なんて面白い夢だろう。
 そう考えていたエリスの目の前を、ふいに蜂蜜色の髪の男の子が通り過ぎて行った。
「!」
 質の良い服を品良く着こなした、天使のように綺麗な男の子。
 唯一無二の、エリスの天使さまだ。
「ヘルムートさま……」
 少年の姿の彼は、スケッチしていた小さなエリスに声をかけていた。
 これは、彼と初めて会った日だ。丘の上で彼と会ったのは、あの時だけだったから。
 エリスはじっと幼いヘルムートを見つめた。その目に焼き付けるように、熱心に。
 今見ているものは過去の光景であって、現実ではないとわかっているから、いくらでも真っすぐに見つめていられる。それに彼が幼い姿でもあるから、変に緊張することがなくて、ただ胸が温かくて切ないだけだった。
 エリスはいつまでも眺めていたいと思ったけれど、長くは続かなかった。
 突然、白い花吹雪が視界を覆いつくしたのだ。
「きゃあ……っ」
 その叫び声に、小さなエリスとヘルムートが振り返った気がしたけれど、確かめるすべはない。視界が開けた時には、もう丘の上にはいなかったのだから。
「………ここ、」
 そこは重厚なつくりの廊下だった。壁面には見慣れた絵画が並んでいる。公爵家の廊下だ。
 エリスは一気に青ざめた。
 どうして彼のいる場所に。
 今は会えない。いや、会いたいけれど、でも心の準備がない。
 夢か幻であることをすっかり忘れて、エリスは本気でうろたえた。
(ど、どうしよう)
 慌てて、とりあえず身を隠そうと思って手近な扉を開けて中に入った。
 その瞬間。
「――――エリスが?」
 どくっ、と心臓が飛び跳ねた。
 エリスは動揺のあまり後ずさり、壁に背をついてしまった。
 部屋の中央にいる二人を呆然と見つめる。
「へ、ヘルムートさま、に、お父さま……?」
 さっきまでは少年だったのに、今ここにいるヘルムートはすでに今と変わらぬ青年へと成長していた。アメジストの瞳は、エリスの父親に向けられている。
 二人はソファに座り、向かい合って話をしていた。
「ああ。私たちはよい縁談だと思っているんだがね……、エリスはどうも乗り気ではないようなんだ」
「彼女自身に確かめたのですか?」
 ヘルムートは平然とした様子で、そう返した。
 エリスの縁談話になど、何の興味もなさそうに見える。
 目の前の光景は会話の内容から、エリスが侯爵家の青年に結婚を申し込まれて悩んでいた頃のものだと分かった。
 エリスは胸の辺りをぎゅっと握った。鼓動が速まる。
(きっとこの後、お父さまがヘルムートさまにわたしと結婚してくれるように頼むんだ)
 それこそ乗り気ではなかった人に………。
(ごめんなさい、ヘルムートさま)
 ぜんぶ自分が悪い、とエリスは思った。
 あの時、本当はどんなに不安でも嫌でも、自分は侯爵家の青年と結婚すべきだったのだ。そうすれば、今のような、ヘルムートに迷惑をかける事態にはならなかった。彼を不幸にするようなことにはならなかったはずだ。
(でも、それでも)
 彼以外の人は、嫌だった。
 一緒にいたいと願ったのは、この天使のような人だった。
 少しだけ意地悪で、でも優しくて、強くて綺麗な唯一の人。
 だから、きっと愚かな自分は同じ状況が何度繰り返されようと、そのたびに彼を選び取るに違いない。
(ごめんなさい)
 エリスは壁際に立ち尽くしたまま、二人の姿を見ないように顔を俯けた。
 好きでもない相手と結婚することになった瞬間、彼はどんな表情を浮かべるのだろう。
 嫌悪に歪んだ顔、表面だけの笑顔、がっかりした顔、エリスの想像の中のヘルムートは、どれも自分との結婚を嫌がっている。そんなものは見たくない。
 でも、ちゃんと何が起きたのか、彼を不幸にしてしまった発端を自分は知っておかなければならない。
 だから、怖くてもエリスは部屋の中に留まった。胸の上で握り締めた両手が震える。

 

prev / 天使の落下 / next


 
inserted by FC2 system