「………え?」
思わず声を発してしまったエリスは慌てて自分の口を押さえたが、それは無意味なことだった。声どころか、ソファに座る目の前の二人にはその姿すら見えていないのだから。
ヘルムートは、真摯な表情で向かい合うエリスの父親を見つめていた。
「僕が彼女を妻に迎えたいのです。お許し頂けますか」
返事がないからか、彼は同じような台詞を繰り返した。
それでようやく、ぽかんと口を開いたまま固まっていた父親が、ハッとしたように身じろぎする。
「え、いや、いけなくはないが、というより私は大歓迎だが」
「ありがとうございます」
ヘルムートは柔らかく微笑みながら続けた。
「まぁ、もちろんエリスが僕との結婚を嫌がらなければの話です。彼女の意思を無視するつもりはありませんので」
「そうか……ありがとう、ヘルムート君。エリスはきっと、君からの求婚ならば心から喜ぶと思うよ」
ホッとしたような笑顔になった父親に、ヘルムートは「ああ、それから」と言った。
「エリスに求婚してきたという侯爵家のア……いや、男の件は僕が片付けておくので、ご心配なく」
「片付けておくって?」
問われたヘルムートは、にやりと笑った。
エリスと父親は同時に目をぱちくりさせる。
なんだかとても意地悪そうな―――悪魔のような笑顔に見えた気がする。
でもまさか、天使のような彼に限って。
親子は一瞬のうちに消えたその表情を、ただの見間違いだと思うことにした。
ヘルムートはすでにいつもどおりの微笑を浮かべ、紅茶のカップに手を伸ばしている。
彼はごく自然な口調で告げた。
「まぁ、大人ですからね。冷静に話し合うだけですよ。二度とエリスに近づかないように、ね」
* * *
エリスは訳がわからなくなった。
一体、どういうことなのだろう。彼は本当に、自分から結婚を望んでくれていたのだろうか。
もし真実なら、こんなに嬉しいことはない。
だけど、とエリスはかぶりを振った。
(そんなはずない……)
強く目をつむって思う。
変に期待しては駄目だ。
それが間違いだったとき、もっと絶望してしまうから。
きっと、彼が自ら結婚話を持ち出したのは父親に気を遣ったからだ。言われる前に言葉を察して、自分から告げただけ。それ以外に、深い意味などないのだろう。
(きっと、そうだ……)
そうである、はずなのに。
彼はとても真摯で、そして優しい表情をしていた―――――。
エリスはゆるりと瞼を上げた。
すると、いつの間にか目の前の光景がまた変わっていた。
今度は先ほどよりも広い部屋だ。見慣れた可愛らしい絨毯と、天蓋つきのベッドが置かれている。小さなテーブルや椅子にも、見覚えがあった。
エリスは窓辺に立っていた。外を見ると、そこにはこの一年で見慣れた美しい庭が広がっている。間違いなく、公爵家の自分の部屋だった。
けれど、なんだかいつもとは雰囲気が違って見える。
なぜだろう、と思っていると、
「おーい、これはどこに置くんだ?」
と、男の声が廊下の方から聞こえてきた。
何人かの足音と、騒がしい気配もする。顔を向ければ、開け放たれたままの部屋の入口から男の使用人たちが大きな箪笥を運び入れていた。
エリスはきょとんとした。運ばれてきたのは箪笥だけではない。長椅子や、書き物机、小物類、絵画、たくさんの花もあった。男の使用人は大きな家具を設置して、女の使用人は小物や花を飾りつけている。
せわしなく働く公爵家の人々の手によって、見る見るうちにエリスが見慣れた自室の風景へと変わっていく。
茫然と見守っていると、エリスの傍にいた女中が部屋を見まわしながら満足げに言った。
「可愛くできたわねぇ。暖かい雰囲気で、旦那さまのご指示通り。すごく素敵だわ」
すると、少し離れたところにいた別の女中もにっこり笑いながら頷いた。
「本当に。奥さまも気に入って下さるといいわね」
「大丈夫さ」
と、今度は窓辺に立つ従僕が微笑んだ。
「内装は完璧、おまけに一番見晴らしの良い部屋だ。奥さまになられる方は絵を描くのがお好きということだから、この眺めをご覧になったら、きっとお喜びになるだろう」
「―――ああ、絵といえば今朝はびっくりしたわ」
花瓶の位置を直していた女中が、くすくす笑いながら言った。
「まさか一度にあんなにたくさんの画材が届くなんて。旦那さまったら、いくらなんでも注文しすぎじゃないかしら。よほど奥さまを驚かせたいのねぇ」
「俺はあの旦那さまにも意外に可愛いところがあったんだなって、そっちに驚いたよ」
使用人たちはおかしそうに笑うと、そのまま楽しげにお喋りしながら廊下に消えて行った。
それはすべて嫁いでくるエリスへの好意に満ちた会話だった。
―――――エリスは知らなかった。
この公爵家の人々がとても優しいことは、ちゃんと分かっていたつもりだった。
でも、こんな風に嫁いでくる前から自分のことを考えてくれていたなんて、想像したこともなかった。
彼らは毎日エリスに元気がないのを心配して、あれこれと世話をしながら話しかけてくれた。実家にいる、子供の頃から知っている使用人たちと同じくらい優しく。
それなのにエリスは、自分付きの侍女たちの名前すらまともに覚えていなかった。この一年自分のことばかりを考えていて、ヘルムート以外の、周りのことになど関心を持っていなかったから。かろうじて分かるのは、ヘルムートとの間を取り持つようによく気遣ってくれる執事の名前くらいだった。
どうしてもっと、公爵家の人々のことを深く知ろうとしなかったのだろう。なかなか馴染めなくて、まるでよその家に間借りしているみたいだと思っていたけれど、その原因は彼らに心を開かなかった自分にあったのに。
それに、何よりも。
エリスの緑の瞳に涙が溢れた。
好意に満ちた人々の中で何不自由なく暮らせていたのは、すべてヘルムートのおかげだったのだ。自分を迎え入れる準備など、執事に任せきりにすることもできたはずなのに。忙しい彼自らがあれこれと指示してくれていたなんて思いもよらなかった。
彼の思いやりが切なかった。
エリスはいつも、この部屋からの景色を素敵だと思っていた。部屋の中は快適で、可愛らしい装飾も好みに合っていた。画材は余るほど用意されていて、足りなくなったことなどない。食事だって、思えばいつも実家で出されていたような、身体に優しいメニューが用意されていた。
何も不思議に思わなかった。エリスはそれらを当然のことのように受け入れていたのだ。
(ヘルムートさま)
何ひとつ、彼に恩を返せていない。それどころか迷惑ばかりかけて、嫌な思いをさせてしまって、自分のことしか見えていなくて。
それなのに彼は、この上なくエリスに良くしてくれていたのだ。
「ごめんなさい」
ごめんなさい、何も、知らなかった。気づいていなかった。
何気なく過ごしてきた日々の中に、あの屋敷の中に、たくさんの優しさが溢れるほど詰まっていたことに―――――。