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第七章 星が宿る

 エリスはしばらく声もなく泣いた。
 自分の愚かさが恨めしかった。ヘルムートの優しさが、嬉しかった。胸に明かりが灯ったように温かくて、だけどどうしようもなく切なかった。
 現実の、今の自分は彼に見限られてしまっている。もう二度と、今までと同じ優しさを向けられることも、微笑んでくれることもないだろう。そう思うと苦しかった。
 だけど、自業自得だ。自分はなんて身勝手だったのだろう。彼は精いっぱい、愛してもいない自分に気を遣い、優しくしてくれていたというのに。大嫌いだと、あの手を振り払ってしまった自分は最低だ。
 エリスはさまざまな感情を振り払うように、ぐっと手の甲で涙を拭った。泣く資格なんてない。彼に酷いことをしたのは、悪いのはぜんぶ自分なのだから。
 新たに滲んでくる涙は無視して、エリスはとぼとぼと部屋から出ようとした。
 けれど、その時。
「ああ、つまらない女!」
 甲高い、苛立った女性の声が聞こえてきた。
 それも部屋の奥からだ。先ほどの使用人たちはみんな出て行って、部屋にはもう誰も残っていなかったはずなのに。
 エリスが振り返ると、一人の女中がベッドのシーツを直していた。日差しの差し込んでいた室内は急に薄暗くなっていて、その顔はよく見えない。
 先ほど見た庭の景色は秋なかばのようだったのに、今、窓の外ではしんしんと雪が降っていた。
 また場面が変わったのだ。
「なんであんなのを奥さまだなんて……っ」
 エリスはその女中の言葉に身を硬くした。聞き覚えのある声だった。
 顔は影になっていて見えないけれど、間違いないだろう。この、独り言を呟いている女中は、数ヶ月前に公爵家から去った人だ。職を辞して、故郷に帰ったのだと侍女の一人からは聞いている。
 エリスは当時、そのことにひどくホッとしたものだ。この甲高い、常に苛立った様子の女中が、エリスはとても苦手だったから。


『ねぇ奥さま、ご自分の夫に浮気されるって、どんなお気持ちなんですか?あら、もしかしてご存じなかったんですか。お可哀相に。だけど、旦那さまが翌朝までお帰りにならないのは、どうしてだと思ってたんです?あたしはすぐに分かりましたよ。奥さまとご一緒にいたくないせいだって。奥さまって、すごくつまらないんだもの。しょっちゅう臥せっていらっしゃるし、ろくに口も利かないし。旦那さま、きっと同じように思っていらっしゃるんだわ。お気の毒な旦那さま。そういえば、一時お声が出なかったのって、どうしてなんです?――――そんなにあの方がお嫌なら、結婚なんてしなければよかったのに。もういっそ、離縁なさってはいかが?』


 そう、意地悪な言い方でヘルムートが浮気していることを教えてきたのが、彼女だった。この公爵家の中で、エリスが唯一苦手とした人。
 普通、彼女の立場では自分から家人に話しかけない決まりとなっているはずなのに、他に人がいない時にはよくこんな調子で話しかけてきた。
 エリスは本当に彼女が苦手で、でも話しかけないでとも言えず、また他の人に相談することもできなかった。人を注意したことも告げ口したこともなかったので、情けないとは思ったが、ただじっと我慢するしかできなかったのだ。
 その頃のことを思い出してエリスが落ち込んでいると、
「何を一人で怒っているの?部屋の外にまで聞こえているわよ」
 と、廊下から別の女中が現れた。
 その黒髪の女中は、開いたままの扉の前で立ち尽くすエリスの脇を通り抜け、室内に入りながら呆れたように言った。
「また奥さまのこと?」
「他に何があるのよ。まったく、どうして旦那さまはあんなつまらない女と結婚したのかしら」
 その言葉に、エリスの胸はズキンと痛む。
 自分でもその通りだと思うから、余計に悲しい。
 先にいた女中は、ベッドのシーツを直す手を止めて苛々とした調子のまま続けた。
「あたしのほうがずっと美人だし、スタイルだっていいわ。劣っているところなんて一つもないのに」
「馬鹿ね。たとえ本当にあなたの方が優っていても、しょせんは使用人じゃないの。旦那さまとは一生結婚なんてできないし、そもそも相手にもされていないでしょう。嫉妬するだけ見苦しいわ。少しは自分の立場を弁えたらどうなの」 
 黒髪の女中は冷静な口調で、かなり辛辣だった。
 シーツを握る女中が顔を真っ赤にして、険しい表情をしたことにも平気な顔をしている。
「なによ、あんただって同じ立場の癖に偉そうに!」
「私はあなたのように、旦那さまに分不相応な恋心なんて抱いていないわ。真面目に働いているだけ。ほら、手が止まっているわよ。早くしないと、奥さまがお部屋にお戻りになられるでしょう」
「あんた何様?あたしに命令なんてしないで!」
 甲高い声で怒鳴る女中に、エリスはびくっと肩を揺らした。
 表情は見えないが、かなり怒っていることは伝わってくる。
 それが分かっていないはずはないだろうに、黒髪の女中はやはり平気な顔をして、軽く肩をすくめただけだった。そのまま何も言わずに部屋から出て行く。
「どいつもこいつも……!」
 残された女中が薄暗がりの中、白い枕を掴んで壁に投げつけた。
 しばらくは彼女の荒い息遣いだけが聞こえてくる。
「………」
 やがて落ち着いた女中は、床に落ちた枕を無言で拾った。
 そして、それを乱雑にベッドに戻すと、彼女はエプロンのポケットから鈍く光る何かを取り出した。
 エリスは「あっ」と息を呑んだ。
(針……?)
 女中はシーツの一部分だけを波打たせて、わざわざ針先が上を向くようにそれを置いた。
 エリスは思わず左の手のひらを押さえる。
 あれは、誰かがうっかり落としただけだと思っていた。
 結婚して、初めての冬。気がついたのは、浴室から戻ってきて横になろうとベッドに入った直後のことだった。左の手のひらにチクリとした痛みを感じて確かめると、玉のような血が浮き出ていて、だけど騒ぐほどのことでもないから、傍に控えていた侍女たちには言わなかった。
 言えば、針の持ち主が罰せられるのではないかと思ったから、そのまま何事もなかったかのようにベッドに潜り込み、そっと舌で血を舐めとったのだ。
 誰かが悪意を持って、わざと針を置いていたのだとは夢にも思っていなかった。
 だけど、事実を知ってやっと腑に落ちたことがある。
 この女中がいつも不機嫌そうにしていたのは、そしてヘルムートの浮気をあんな風に告げてきたのは、彼を好きだったからなのだと。
 彼の妻が自分のような情けない人間だということを認められなくて、常に苛立っていたのだろう。
 エリスはそう考え、深くため息を吐いた。
「……わたし、鈍いなぁ……」
 きゅっ、と唇を噛んだ。ここまで憎まれていて、それでもちょっと意地悪だなぁくらいにしか感じていなかった自分に呆れてしまう。
 こんなだから、嫌われてしまうのだ。
 それは悲しいけれど、仕方のないことのように思えた。

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