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第七章 星が宿る

 下を向いて落ち込んでいたエリスの耳に、今度は男の人の声が聞こえてきた。
 老執事のセドリックの声だ。
「私に用とは何だね」
 顔を上げると、またもや目の前の光景は様変わりしていた。
 そこはエリスがこれまでに入った事のない部屋だった。正面には窓を背にした大きな執務机があって、セドリックが椅子に座っている。
「セドリックさんにお願いがあるんです」
 と、机をはさんで彼と向かい合わせに立っている女中が言った。
 エリスからは後ろ姿しか分からないが、甲高い声から、先ほどの意地悪な女中だと分かった。彼女は例によって苛々した口調で続けた。
「さっき女中頭から解雇を言い渡されました。『理由はよく分かっているでしょう』って突然。でもあたしは解雇されるような失敗は何もしてないし、心当たりなんてありません。そのことを言っても、女中頭は聞き入れてくれないんです。あの人はきっと個人的にあたしのことが気に食わなくて、それで突然解雇だなんて言い出しただけなんです。セドリックさん、あたし毎日すごく一生懸命がんばっていたんですよ?だから、お願いします。セドリックさんから女中頭に、あたしを解雇しないように言って下さい」
「あいにくと、私も女中頭と同じことしか言えない。君には解雇される理由がちゃんとある」
 セドリックは、いつも穏やかな老人だった。少なくともエリスに対する時は、丁寧で優しく、こんな風に厳しい口調をしたり、眉間にシワを寄せることもなかった。
「何のことか、あたしには……」
「心当たりが一つもないと、本当に言えるのかね?」
 強く鋭い視線に、エリスはびっくりした。
 今ここにいるセドリックは、一体誰なのだろうと思うような別人ぶりで、竦み上がるような威圧感がある。実際、女中の背中は強張ったように見えた。
「二週間前、衣装箪笥の中の奥さまのドレスがハサミで切り裂かれていた。一週間前には絵筆が何本も折られていたし、一昨日は水差しの中からトカゲの死骸が見つかった。気づいた侍女が悲鳴を飲み込まなければ大騒ぎになっていただろう。――――どれも幸いにして、奥さまが気づかれる前に片すことができたが……ここまであからさまな嫌がらせが起きる前にも、我々の気づかぬところで何かが起きていたはずだ。あの方は我慢強いところがおありだから、何もおっしゃられなかったのだろうがね」
「あ、あたしがやったっていう証拠があるんですか」
「君の衣服の袖に、絵の具が付いているのを見た者がいた。それも、ちょうど一週間前のことだ。奥さまの絵筆に触れた時に付いたのではないのかね」
「それは……、掃除の時にたまたま手が当たってしまって、テーブルから筆が落ちたんです。きっと拾った時に付いたんだわ」
「二週間前、君が用もなく奥さまの衣装箪笥を開けて、中を覗いていたのは?」
「え……それは……素敵な衣装が多いから、見てみてくなって」
「奥さまのドレスが切り裂かれていた日、君の部屋から裁縫箱を借りた者が、ハサミがなかったと言っていたのだが、それはどう説明するのかね?」
「借りたって……、誰が勝手に人の物を……!」
「それは後で部屋に入った当人に文句を言いなさい。そんなことよりも、その時間、君のハサミは一体どこにあったんだね」
 厳しく追求するセドリックに、女中はやや怯みながらも強い口調で言った。
「失くしていたんです!後で見つかりましたけど。きっと……そうだわ、誰かがあたしのハサミを持ち出して、罪をなすりつけようとしたんじゃないかしら。あたし、よく人から妬まれてしまうんです。それに第一、奥さまに嫌がらせする理由なんて、あたしにはありませんし」
「―――――あなたは旦那さまに好意を抱いていたそうね。それが理由なのではないの?」
 落ち着いた年配の女性の声音が、室内に響いた。
 振り返ると、扉の傍に女中頭と先ほど見た黒髪の女中が立っていた。
 いつの間に入室したのだろう。
 エリスは話の内容に驚いていたせいで、まったく気づかなかった。
「レティー……あんたがあたしのことベラベラと告げ口したの?」
 甲高い声の女中が、黒髪の女中―――レティーというらしい―――に向って訊いた。
「信じられない、なんて嫌な女!いつもいつも偉そうに。あたしを解雇に追いやって、さぞ満足なんでしょうね」
「どういう意味?」
 レティーは相手の怒りにも全く動じることなく、静かに訊いた。
 それが余計に腹立たしかったのだろう、甲高い声がいっそう苛立ちを帯びる。
「あたしには分かってるわ。あんたはあたしが妬ましいのよ。自分と正反対の、明るくて誰からも好かれるあたしが。だからいつも口うるさく注意したり、あたしの行動をいちいち監視していたんでしょう。あんたが余計な告げ口さえしなければ、ドレスのことも絵筆のことも、何ひとつバレなかったのに……!どうせ部屋に無断で入ったっていうのもあんたなんでしょう?最低だわ」
「言っておくけれど、あなたを監視していたつもりはないし、部屋から裁縫箱を借りて行ったのも別の子よ。それより、認めるのね?」
「え?」
 レティーの淡々とした問いかけに、甲高い声の女中は訝しげな声を発した。
「自分が奥さまに嫌がらせをしていたこと、認めるのね?」
「……!」
 ハッと口を押さえるが、もはや手遅れだった。
「ちが、違うわ!セドリックさん、聞いて下さい、女中頭も!あたしじゃないんです!あたしじゃ………」
 慌てるメイドに、彼らは呆れたような眼差しを向けていた。
 女中頭は一つため息を吐き、言った。
「すでにこのことは旦那さまのお耳にも入っています。退職金が出るだけありがたいと思いなさい。あなたは新参者で旦那さまのことをよく知らないでしょうが、あの方は怒らせるととても……」
「今さら教えてもらわなくても旦那さまのことならよく存じています。美しくて天使のような方だって、街でも評判でずっと憧れていていたんですもの。ここで働けることになってどんなに嬉しかったか……!だから辞めるなんて絶対に嫌!どうかこのまま置いて下さい」
 必死に頼み込んだ女中に、女中頭が冷たく言う。
「なりません。これは旦那さまのご命令です。即刻あなたを解雇し、二度と公爵家にも奥さまにも近づけぬようにと。諦めることですね」
「そんな……!」
「――――あなたって、本当に馬鹿ね」
 そう言葉を発したのはレティーだった。彼女は女中頭の後ろから一歩前へ出ると、心底そう思っているような口調で話しかけた。
「はっきり教えておいてあげるわ。あまりにも勘違いが酷いから」
「レティー、控えていなさい」
「女中頭。こういうウザいのは、しばらく立ち直れないほどに叩きのめすべきだと思います。そうでもしなければ、この先もどうにかして旦那さまと関わろうとするでしょう」
「こ、これ」
 セドリックの顔が少し引きつっていた。
 甲高い声の女中も、レティーのきっぱりとした物言いにはさすがに動じたのか、「う、ウザい?」と呆気にとられている。
「いいこと、よくお聞きなさいな。旦那さまはね、見かけはそりゃあ天使のような人よ。私も初めてお会いした時には思わず見惚れたりもしたから、あなたがあの方に憧れる気持ちが分からないわけではないわ。なにせ見かけだけは極上だもの。もしかしたら私も中身を知らなければ、うっかり惚れていたかも知れないわ」
「レティー」
 女中頭の諌めるような呼びかけにも、レティーは平然としたものだ。おかまいなしに話を続ける。
「あなたはたぶん、旦那さまが身も心も天使のようにお優しく美しいとでも思っているのだろうけれど、それは大きな勘違いよ。あの方の中身はね、悪魔なの。それも相当タチの悪い」
「あ、悪魔ですって?何を根拠に。失礼なこと言わないでよ!旦那さまは本当に心がお優しくて、清らかな方で」
「それはあなたの幻想よ。幼い頃からここで働いている私が言うのだから、間違いないわ。古参の使用人はみんな知っている事実よ。旦那さまは、ちょっと手に負えないほど性格が悪いの。歪んでいるのよ。鬼畜よ。だからまともなご友人がいらっしゃらないのよ。いるのは同じくらい性格の悪いご学友だけなの。神はあの方に素晴らしい容姿と頭脳と運動神経までお与えになったけれど、性格まではどうにもできなかったのよ。とても残念なことにね」
「レティー!」
 女中頭は渋い顔つきで再び諌めるように名を呼び、一方セドリックはもはや言葉を失っていた。
 黙って目の前のやり取りを見守っていたエリスも、ぽかんと口を開いたまま固まる。
(ヘルムートさまが、あくま………??)
 そんな馬鹿な。確かにちょっぴり意地悪だけど。
 でも、すごく優しい人だ。悪魔だなんて、エリスは思ったこともない。
 そんな風に言うなんてあんまりだ。レティーこそ彼のことを誤解している。
 エリスがそう考えていると、レティーは少し口調を変えて「だけどね」と言った。
「そんな旦那さまにも、心から慈しむ方がいらっしゃるの。もちろん、それはあなたではないわ。その方はね、旦那さまのお心を完璧に手に入れていらっしゃるの。あの悪魔を落とすなんて、お見事というか、お気の毒というか……。あなたも本当は分かっているのでしょう?それが誰なのか―――」

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