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第七章 星が宿る

   * * *

「………を用意しておいてくれ」
「かしこまりました」
 一瞬のうちだった。
 エリスがハッと気がつくと、伸ばした手の先にはもうヘルムートはいなくなっていた。先ほどとは打って変わって、視界が明るい。
 また場面が変わったのだ。
 今度はヘルムートの部屋だった。彼はくつろいだ様子でソファに座り、書類を読んでいる。
 今しがたのやり取りをしていた相手はセドリックで、彼は扉の前で一礼した後、部屋から出て行った。ソファの近くでは、従僕が彼のために紅茶を淹れていた。
 エリスはそろそろとヘルムートの向かい側のソファに腰かけた。ついこの間、ここに座って彼と話をしたことを思い出す。あれはコレットが訪ねてきてくれた日で、この隣の寝室で、豊穣祭に行きたいとねだったのだ。
 エリスはじっとヘルムートの端正な顔を見つめた。
 書類に視線を落としているので、長い睫毛がアメジストの綺麗な瞳に影を落としている。すっと通った鼻筋、薄い唇、滑らかな頬の線、蜂蜜色のわずかに癖のある髪。それらを憧憬でもって飽きることなく見つめた。
 胸の奥の熱が引かない。
 沸き起こったのは、愛しさだった。
 この人の体温を感じたいと強く思った。
 けれど、やはり気安く触れていいはずがない。思い上がるようなことがあってはならない。たとえ夢や幻の中であったとしても、彼の手を振り払って見放された自分には、そんな資格はないのだから。
 先ほどは思わず彼に触れようとしてしまったので、今度はそんなことがないように、エリスは両手をぎゅっと胸元で握り締めた。
「――――そうだ。ロビン」
 ふいにヘルムートが顔を上げ、従僕に言った。
「今晩、夕食に林檎酒を出してくれ」
「かしこまりました。例のシローニャ産のものですね。厨房に伝えておきます。ですが、林檎酒はあまりお好きではなかったはずでは……?」
「そうだけど、一応王子サマからの土産物だし、一口くらいはと思ってね。ていうか、ちゃんと飲んで感想を言わないとうるさいんだよ」
 ロビンと呼ばれた従僕は、その言葉におかしそうに笑った。
「相変わらず、仲がよろしいようで」
 そう言いながら、ヘルムートの前に静かにカップを置く。
 この距離ならばエリスの元にも良い香りが漂ってきそうなものだが、どうやらこの夢だか幻だかの中では、匂いまでは感じられないようだ。
 ヘルムートはソファの上に読んでいた書類を置くと、静かな動作でカップを持ち上げた。そして、口をつける寸前にふと思いついたように動きを止め、もう一度ロビンに顔を向けた。
「それから、もう一つ厨房に伝えてくれ。エリスに……そうだな、林檎のジュースを用意するようにと」
「林檎のジュース、ですか?」
「そう。あの子、酒に弱いから。それに一昨日まで寝込んでいたんだから、ジュースの方がいいだろう。林檎は好きなはずだし、材料の一部が同じなら、僕とおそろいになるしね」
 そう言ったヘルムートの眼差しと口調は、本当に優しくて。
 だから、エリスは誤解しそうになるのだ。
 自分は彼に、特別に好かれているみたいだと。
(そんなはずないのに)
 そう、そんなはずはない。
 だけど少なくとも、嫌われてはいなかった。嫌われてなんかいなかった。彼は子供の頃と同じように、ずっと自分のことを見守っていてくれたのだ。
 あの結婚式の日の真実は分からないままだけれど、それでももう、構わないと思った。
 だって、こんなにも穏やかに自分のことを話してくれている。愛しむように目を細めて、名前を呼んでくれている。それもまた、真実なのだから。
 小さな星が夜空で輝くように、真っ暗闇だったエリスの心にもようやく光が灯る。
 それは本当に小さな光だった。
 けれど、闇を払うようにとても強い輝きを放っている。
(林檎味、おそろいにしてくれていたんだ……)
 そんな小さなことも嬉しくて、身体中が熱くなって、エリスの大きな緑の瞳からはまた涙が流れ落ちる。
 彼は、普通に好きでいてくれたのだ。
(わたしのこと、大事にしてくれてた)
 もう、それが分かっただけでも十分ではないか。
 多くを望んでは罰が当たる。
 黒髪の女中、レティーが言っていた。彼には心から想う人がいるのだと。それでなくとも彼は浮気をしていて、自分はまるで女性としては見られていなかったのだ。どうなったって、彼の特別にはなれない存在なのだ。
 本当に嫌われてしまった今では、なおさら希望など持てないし、たとえ許してもらえたとしても夫婦としてやり直すことは不可能だろう。
 だから望んでもいいのは、彼に許してもらって昔のように友達みたいな関係に戻ることだけ――――――。
(やだ)
 違う。嘘だ。友達じゃ嫌だ。本当になりたいのは、そういう関係ではないのだ。今は、もう。
 愛しくて、大好きで、苦しくて、さみしくて、傍にいたくて、触れたくて。
 たくさんの感情があふれてきて、そんなのはもう、恋でしかない。愛でしかないのだ。
 エリスはそっと立ち上がると、ヘルムートの傍まで行って、その足元に座り込んだ。震える手で、彼の膝に触れた。今のエリスには彼の体温を感じることはできないけれど、でも、これは確かに彼なのだ。カップを持つ大きな手、その向こう側にある綺麗な顔。見慣れた大好きな人の姿。
「ヘルムートさま………」
 エリスの頬を、涙が伝い落ちる。
 その膝に顔を寄せた。
「大好き」
 吐息に乗せて囁けば、それが自分のたった一つの真実なのだと分かる。
 この人が好きだ。
 どうしようもなく、恋い焦がれている。
 彼にとってのたった一人の特別な存在になりたい。
 だから、現実の世界でも伝えるのだ。
 何も言わずに終わるのは嫌だから。
 思うままに声にする。
 今度こそ、勇気を出して。


 

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