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第八章 ふたつの食卓

 雪が舞っていた。
 薄曇りの空から、絶え間なく降り続けていた。 
 小さなエリスは部屋着にコートを羽織った姿で、懸命に先を行くレスターの後を追いかけていた。雪はすでに足首が埋まるほど積もっている。
『待って、レスター!ま……っ、きゃあっ』
 エリスは足を滑らせて転び、あっという間に雪まみれになった。顔から突っ込んだから、鼻や頬が痛むように冷たかった。それに手袋をつけていない手のひらも。
 倒れ込んだまま正面を見ると、レスターの姿はもうはるか先で。
 彼は一度もエリスを振り返らずに、黙々と銀世界の中を進んでいた。
『レスターぁ……』
 弱々しい呼び声は届かない。
 彼の足跡だけがこの先に続いている。
 どこに行ってしまうのだろう。
 たった一人でどこへ。
 意識が遠のき始めた、そのときだった。

『――――どうして……お前みたいなのが、俺の』

 苦々しい呟きが、ふいにすぐ近くから聞こえた気がしたけれど、きっとそれは幻聴だったのだ。
 だって、その後レスターが続けた言葉は、とてもありえないことだったから。


   * * *


 次に目を開けた時、視界に映ったのは木目の天井だった。
 エリスはベッドの上で、仰向けに横たわっていた。
「―――気分は?」
 短い問いかけに顔を横に向けると、ベッド脇の椅子にレスターが足を組んで座っていた。眠りにつくときに傍にいてくれたニコの姿は見当たらない。
「うん……だいじょうぶ。元気」
「お前の元気ほど当てにならねぇもんはないな」
 エリスが余計なこと――――掃除をしたせいでとても怒っていたはずのレスターは、今はもういつも通りの様子だった。ちょっと呆れたような、突き放すような喋り方で、無表情にこちらを見下ろしている。
 彼をよく知らない人からすれば、それもまた怒っているように見えるだろう。
 でも、それが彼の普通なのだ。長い付き合いだから、エリスには怒っているときとの違いがちゃんと分かる。
 少しほっとしながら、改めて謝った。
「レスター、あの……服汚しちゃって、本当にごめんなさい」
「別にどうでもいい」
 たいていそうであるように、レスターはにこりともせずに言った。
 それからまだ情けない顔をしているエリスを気遣ってくれたのだろうか、一拍置いて付け加えた。
「だいたいあの程度の汚れなら、安い石鹸でもすぐに落ちる」
「ほんと……?」
「嘘言う理由なんかねぇだろ」
 きっぱりとした口調に、エリスは胸を撫で下ろした。
「よかった……」
 特別な石鹸でなければきっと落ちないと慌ててしまったけれど、レスターにしてみれば、エリスが思うほどの大ごとではなかったらしい。
「じゃあ、わたし今から洗ってく」
「おいコラ鳥頭。寝る前に俺が何を言ったかスッカリ忘れたのか」
 ベッドの上に起き上がろうとしたエリスのおでこを、レスターは軽く押し返した。そのわずかな力でも、再び後ろ頭は簡単に枕に沈み込む。
 なんだかまだ身体がだるくて、重たく感じた。元気と告げるには早かったのかもしれない。そう思いながらも、エリスはレスターを見上げて言った。
「でも、汚したのはわたしだから……」
「今ニコが洗っている最中だ。お前は余計なこと考えずに、そのなけなしの体力を回復させて、さっさと自分の家に帰るんだな」
「え……」
 エリスはわずかに口を開けたままで固まった。
 琥珀色の瞳が、すべてを見透かすように見下ろしてくる。
「それとも、まだ俺に相談したいことがあるのか?」
 ――――もうお前自身の中で、結論は出ているのに。
 そんな風に続きそうだった。
「……ううん」
 エリスは首を横に振った。
 いつだって、レスターは聡い。時々、なんでもかんでも全てお見通しなのではないかと思うときがある。昔からそうだった。いつだって、エリスの情けなくて弱い心なんて簡単に読んでしまう。今みたいに、何か言う前に理解してくれている。
「なら、もう少し寝てろ。昼飯ができたら起こしに来てやるから」
 椅子から立ち上がったレスターに、エリスはなんと言えばいいのか迷って、とりあえず思いついたことを訊いてみた。
「あの、レスター……これは、現実なんだよね……?」
 今さらの確認に、彼は片眉を上げた。
「さぁな。頬をつねって確かめてやろうか?」
「う、ううん。いい」
 やるとなったら本気でつねられそうで怖い。
 エリスはふるふる首を横に振った。
 そうしながら、ふと気づく。
 自分は今、頬にかかる髪のこそばゆさも、シーツの感触や温もりもちゃんと感じている。それに、わずかに冷たい部屋の空気も。窓の方に目を向けると、色づいた木の葉が青空を背景にはらはらと舞い落ちているのが見えた。
 頬をつねってもらうまでもなく、ここは正真正銘、夢の中ではなく現実の世界なのだ。









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