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第八章 ふたつの食卓

「勝手に人の家に上がり込んだあげく病人の前で大声出してんじゃねぇぞ、非常識女」
「勝手じゃないわよ、あなたんとこのウサギに入れてもらったもの。あいかわらず似合わない可愛らしい暮らししてるわね。―――あ、でもうるさくしたのはごめんね、エリス。身体に障らなかった?」
 互いに睨み合いながらやり取りした後、コレットが心配そうにベッドに寄ってきて、エリスの顔を覗き込んだ。
「う、うん。大丈夫、だいぶ寝てたから、もう元気だよ」
「あなたの元気ほど当てにならないものはないわよねぇ」
 と、レスターと同じことを言って、コレットはホッとしたように続ける。
「だけどまぁ、最初よりはマシな顔色してるから、ホントに少しはよくなったのね。あなた冗談じゃなく死にそうだったもの。メソメソ泣きながら熱にうなされているわ、話しかけても返事しないわ。まったく、あんまり心配かけないでよね」
 ちょっと怒りながらも、コレットの口調はやさしかった。ベッドのふちに腰かけて、横になったままのエリスの頬をつつく。
 彼女の気遣いが嬉しくて、エリスは微笑みながら言った。
「心配してくれてありがとう、コレット」
 自分には、こうして気にしてくれる人がいるのだと改めて知ると、とても嬉しかった。
 にっこり笑い返してくれるコレットを見上げながら、「ところで……」とエリスは疑問を口にした。
「わたしが眠っている間にも、会いに来てくれてたの?どうしてここにいること……」
 言いかけて、そんなことは公爵家を訪ねればすぐに知れることだと気づく。
 だけど、いま自分はあの家でどういう扱いになっているのだろう。ヘルムートは、一緒に家に戻らなかった自分のことを、使用人の皆になんと説明したのだろう。
 ようやくそこに思い至り、エリスは不安に襲われた。
 もう戻って来る必要はない、と彼に言われている以上、もしかしたら、―――――すでに自分の居場所はあの家にないのではないか。奥さま、なんて誰にも呼んでもらえなくなっているのではないか。
 つまり、離縁の手筈を整えてられているのかもしれなくて。
 そうだったら、どうしよう。
 さんざん彼のためを思うなら、こんな結婚なんてすべきじゃなかったと考えていたくせに、いざ離縁されるかもしれないと思うと、エリスはやはり身勝手にも嫌だと思ってしまう。何も伝えていないまま、そんな風に終わりにしたくないと。
 もし、自分と離縁したら。
 そうしたら、彼は自分以外の女性を新たに妻にするのだろうか。きっと、そうするだろう。不思議な夢の中で、公爵家の女中であるレティーが言っていた。彼には本当に想う人がいるのだと。
 だからきっと、その人と。
(わたしさえいなければ、もっと早くにそうしていたのかな……)
 子供の頃から知っていて、父親同士が親友で、病弱で、望まぬ縁談に困っていた、そういう面倒な事情のある自分さえいなければ。
 彼は本当にやさしい人だ。恋愛感情なんてなかったのに、ただ同情とか義理とか、そういうものしかなかったのに結婚してくれたのだから。 
 他に想う人がいる彼にとって、自分はただの厄介者でしかなかったのに、結婚してからだって、せいいっぱい気遣ってくれて。
 なのに、そんなやさしい彼の幸せのために、このまま大人しく身を引くという選択肢もあるというのに、エリスはそうできない。
 豊穣祭の日、『一緒に帰ろう』と言ってくれたその手を、もう一度伸ばしてほしいと思ってしまう。たとえ伸ばしてくれなくても、自分から掴んですがりつきたいと思ってしまう。
 彼に、もう一度自分の傍にいてほしいと思ってしまう。
 それが身勝手で我がままな、最低なことだと分かっているのに、諦めるなんてできそうになくて。
 もう一度自分を選んでくれたら、きっとまたその優しさに付け込んでしまうだろう。
 そんな自分を、たとえ許してくれたとしても、異性として誰よりも好きになってくれるだろうか。
 考えれば考えるほど、それは限りなく不可能な、儚い望みのような気がしてくる。
 思考は一瞬にして悪いほうへと沈みかける。
 ――――けれど。
 今はほんの小さな星のような光が胸の中にあって、それが後ろ向きな自分をかろうじて押しとどめてくれる。引き上げようとしてくれる。
 それは、あのたくさんの夢の中で知った、自分に対する彼の優しさであり、誠実さであり、愛しむような温かな眼差しだった。
 それに、子供の頃から知っている、ちょっと意地悪だけど優しい大好きな彼だった。
 がんばろう、とエリスは思う。
 彼に誰よりも―――彼が想う人よりも―――好きになってもらえるように。いつか彼が、自分といて幸せだと思ってくれる日がくるように。
 毎日色々なことを努力しよう。
 もっとたくさん話しかけて、たくさん一緒に笑って、少しずつでいいから、好きになってもらえるように。
 大丈夫、できるはずだ。
 だって自分は、もうそうしたことがあるのだから。
 子供の頃、レスターに向かっていっためげない心を思い出す。どんなに冷たくされても追いかけた、あの雪の日を。
 振り向いて欲しいなら、あの日のように前へ進むしかないのだ。
「エリス?」
 急に押し黙ったエリスに、コレットが「大丈夫?」と声をかけた。具合が悪くなったのではと思ったらしい。
「ううん、大丈夫、なんでもないの。ごめんね、ぼうっとして」
「いつもだろ」
 すかさず突っ込んだのは、立ったままこちらを見ているレスターだった。
 コレットがじろりと彼を睨む。
「ちょっといつまでそんなところに突っ立ってるの。ここは乙女の寝室よ。さっさと出て行きなさい」
 乙女の寝室も何もエリスはただの居候で、家主はレスターである。
 だから本来どこにいようと彼の自由なのだが、コレットは自分こそが家主であるかのように強気な態度で命令した。
「こ、コレット」
 エリスは見た。
 レスターの額に青筋が浮かんだのを。
 はるか彼方の極寒の地ですらこんなに寒くはないだろう、というような空気が漂ってくる。なんでコレットは平気な顔で、さらに怒らせるような行為――――しっしと手で追い払う仕草までできるのだろう。自分にはとうてい無理だ。確実に目が合っただけで気がくじける。ごめんなさいを三回くらい言う。
 レスターは地の底を這うような低い声で言った。
「お前こそ用が済んだらとっとと帰れ。いいな」
 何かもっと言い返すかと思ったけれど、レスターは背を向けて部屋を出て行った。パタン、とドアが閉まる。
 そういえば、さっき昼食を作ると言っていたから、台所に向かったのかもしれない。









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