* * *
レスターの家で過ごす最後の夜、エリスはベッドの上に座り込み、もう一度小物入れから髪飾りを取り出した。
(あした、つけて帰りたいな……)
だけど、贈り主であるヘルムートとこんな状態のまま、自分の身勝手を許してもらっていないままで、そうしてはいけない気がして。
エリスはずいぶん長く眺めて迷った末に、結局はトランクにしまって持ち帰ることに決めた。
焦げ茶色のトランクは、コレットがドレスと共に置いていってくれたものだ。すでに詰めていた衣類の隙間に、繊細な髪飾りが傷つかないようにそっと挟み込む。
本当はまだ見つめていたかったけれど、いつまでもそうしているわけにはいかないから、未練を封じるようにトランクの蓋を閉めた。
明日に備えて、今日は早めに眠るつもりだった。
ただ、とうとう公爵家に戻るのだと思うとそれだけで心臓が早鐘を打つので、ベッドに横になってもすぐには眠れそうになかった。
逃げ去った自分に、ヘルムートがどんな反応を示すか想像せずにはいられなくて、何度でも胸の中は不安や恐れでいっぱいなる。
明日が近づくにつれて落ち着かない気分は増してゆくばかりで、どんなに決意を固めても、生来の弱虫はそう簡単に直るものではないのだと思い知らされてしまう。
エリスは自分に負けないように、頭を振って悪い考えを追い払った。
(がんばろう)
自分の中のありったけの勇気をかき集めて。
エリスはひとつ深呼吸して気を取り直してから、小物入れを脚の低いテーブルの上に戻そうとした。
ところが。
「あ……!」
小物入れが、手の中から滑り落ちた。
一瞬宙に逃げ出したそれを、エリスはなんとか抱きとめる。
自分の鈍さで、よく落とすのを防げたものだと安心したのもつかのま。
わずかに開いた小物入れの隙間から、コロン、と何かが床に落ちた。
慌てて確かめると、それは青みがかった透明な玉だった。ランプの明かりに美しく煌めきながら、壁ぎわの暗がりに―――埃よけの布がかけられた、たくさんの本や絵画、置物がある方に向かって転がっていく。
エリスはもちろん追いかけたのだが、掴まえるより先に布の下に姿を隠してしまった。
「どこにいっちゃったんだろう……」
手にしたままだった小物入れを床に置き、エリスは布をめくり上げた。
物が重なるようにして置かれているので、小さな玉がどこにいったのか一目で見分けることはできなかった。暗がりだからなおさらだ。
ひざをついて物のすきまを低い位置から確認してみたけれど、結果は同じだった。
エリスはランプを手元に持って来ようと思い、いったん埃避けの布を下げようとしたのだが。
その瞬間、何かがキラッと光った気がして、手を止めてもう一度暗がりを覗き込んでみた。
でも、何も光ってなどいなかった。
「……見間違いかな?」
呟き、布をかけなおそうとした、そのときだ。
――――どうして分かったのだろう。
自分でも不思議だった。
エリスは迷うことなく手を伸ばす。
二本足で立つ背の高い猫の置物と、大きな額縁の影。
それは完全に姿を隠していたのに。
「やっぱり……」
そこから引っ張り出したのは、追いかけていた小さな玉ではなくて、とても懐かしい絵だった。
控えめに装飾された、金色の小さな額縁に入っている。
「……らくがきみたい」
くす、と思わず笑みが零れた。
いま再び見ると、本当につたなすぎる代物だけど、子供の頃はそれでも上手く描けたと思っていた。
金色の額縁の中。
そこにいるのは、この世の何よりも綺麗に描いたつもりの男の子。
輝く神秘的な紫色の瞳で、こちらではなく斜めを向き、遠くを見つめている。そのどことなく気高い雰囲気だけは、自分でもよくあらわせていると思う。
「ヘルムートさま……」
額縁の中の男の子――――ヘルムートは、その頃よくエリスの絵を綺麗だと言ってくれていた。他にも嬉しくなる言葉でたくさん褒めてくれ、飽きずにずっと眺めてくれていた。
でも、エリスは知っていた。
この世には自分の絵より綺麗で、ずっと眺めていたいものがあることを。
それは他でもない、彼だ。
いくら綺麗な人やものをそっくりに描いたからといって、とうてい本物に敵わないことは分かっていたけれど、それでもエリスは彼を描いてみた。
本人に了承も得ず、こっそり内緒で。
でも、怒られたり嫌がられたりするような気はしなかった。むろん、思い上がりということもあるけれど、喜んでもらえる顔しか思い浮かばなかったのだ。
だって彼は、エリスの絵を気に入ってくれていた。特に、人物画がいいと言ってくれていて。
だから、完成したら贈って驚かせようと思っていたのだ。
でも、結局一度も見せることなく、こうしてレスターに預けたままになっている。
(今よりずっと下手くそだけど……見てもらいたかったな……)
エリスはそっと指で絵に触れた。
ヘルムートはこんな絵が存在することを知らない。ずっと言えなかった。贈れなかったもののことを話すなんて。