prev / 天使の落下 / next

第八章 ふたつの食卓

『お姫。お前、もう絵は描くな』
 その頃、レスターに言われた言葉が蘇った。
『お前の絵は、―――――お前の命を糧にして描かれている。だから、そこまで虚弱になったんだ』
 ある日突然そう言われて、エリスはびっくりした。
『どういうこと?レスター……』
『お前はおそらく、俺と同じ種類の人間だ』
『同じって……』
『……魔法使いの素質があるってことだ。だから普通じゃない。お前も、お前の描くものも。特に生き物の絵は……。お前の持つ力で、知らないうちにおかしな影響が出ていた。お守り役の俺が、もっと早くに気づくべきだった。…………悪かった』
 レスターは視線を外しながら、そう謝った。彼が謝るのなんて初めてで、一瞬聞き間違いかと思ったほどだ。
『でも、レスター……。わたしの絵、本当に普通だよ?それにレスターやアレイスターおじいさまみたいな魔法も使えないし……。なにも変なことなんて』
『起きてたんだよ。俺はこの目で確認済みだ。じいさんが先に気づかなかったら、いつ気づけたか』
 レスターは自分が先に気づかなかったことに対してか、悔しそうにチッと舌打ちした。
『なにを見たの……?』
 自分にはまるで心当たりなんかなくて、エリスは戸惑いながら訊いたのだが。
『……お前はそこまで知らなくていい。ただ、絵を描くと自分の命に関わる、妙なことが起きるってことだけ知っとけ。だから、もう絵は止めろ』
『だけど……わたし、絵を描くのがなにより好きなの。絵なら、ベッドの上でも描けるし……』
『読書や刺繍でもいいだろ。変なもん描き続けて死んだら、元も子もねぇ』
『でも……』
 エリスはあきらめられなかった。病弱な自分の、唯一の趣味だったから。それに……。
『強くなりたいなら、もう描くな』
 レスターはきっぱりと言った。
『もともと弱い身体で、そんなものを描いていれば当然すぐ倒れるし、熱も出る。もう描くのは止せ。趣味なら他にいくらでも見つけられる』
 そうじゃないの、とエリスは首を横に振った。
『わたし、絵を描くのは好き。でも、それだけで描き続けているんじゃないの』
『じゃあ、何のために描く?』
 レスターは怪訝そうに訊いた。
 エリスはためらった後、内緒話をするようにそっと唇を彼の耳元に近づけた。
『あのね……ヘルムートさまが、言ってくれたの』

 ―――――僕さ、きみの絵を見てるとなぜだか幸せな気分になるんだよね……。

 そう言われたエリスのほうがとても幸せな気分になったことを、きっと彼は知らないだろう。
 どんな褒め言葉よりも嬉しかった。
『わたし、他になんにもできないけど、絵を描いていればヘルムートさまのこと喜ばせてあげられる。幸せにしてあげられるの。だから、これからもずっと描きたい……。レスター、お願い』
『………』
 レスターはちょっと苛立ったような表情をして黙り、やがて言った。
『どうしても止める気ねぇのか』
『うん……』
 琥珀色の瞳に睨みつけられても、このときばかりはエリスは引かなかった。
『いつかポックリ死んでも俺は知らないからな。お前の自業自得だ』
『う、うん』
 死ぬ、と言われてドキリとした。
 なにしろ人より弱い体のせいで、すでに二度も死にかけた経験があったから。
 でもいつになく強情に折れないでいると、レスターのほうが折れてくれた。なんだかんだ言って、彼は優しいのだ。エリスがどんなに絵を描くのが好きか、ヘルムートのために描きたいかを分かってくれた。
『………そんなに描きたけりゃ好きにしろ。ただし、生き物の絵だけはやめろ。それから、生き物の形をしたものも。お前だけじゃなく周りにも影響が出る。迷惑だ』
 それがどんなものなのか具体的には言ってくれないまま、レスターは厳しい口調で言った。
『お前みたいな妙な絵描きは、そこいらの家具や建物でも描いて満足してろ』
 ………優しい、はずだ。うん。
 エリスはおおいに落ち込みながら、確認した。
『お花とか、木を描くのは?それはいい?』
 ほとんど屋敷から出ないエリスの楽しみのひとつは、庭の移り変わる景色だ。それが描けなくなるのはいやだった。生き物の絵だって、本当はとても描きたくて仕方なかったけれど。
 レスターは心配して言ってくれているのだから、全面的に跳ね除けることなどできなかった。それにやっぱり、死んでしまうと言われたのが怖かった。
『まぁ―――大丈夫だろう』
『よかった……』
 とりあえずホッとして息を吐いたエリスに、レスターは釘を刺した。
『人や動物は絶対に描くなよ。いいな?』
『……うん……』
 そう返事をしながら視線を向けたのは、もう少しで完成するはずだったヘルムートの絵だった。
『でも、これだけ完成させてもいい……?もう少し色を足すだけだから』
『このわたあめ。お前は俺の忠告を無にする気か?』
 わたあめ?エリスは変な呼び方をされて一瞬目をぱちくりさせたが、そんなことを突っ込める雰囲気ではなかった。必死に否定した。
『そ、そんなことないけど』
『どうだかな。―――念のためそいつは没収する。よこせ』
『えっ』
 驚いているうちに、その絵はレスターの手の中に収まった。
『火にくべたりはしないから安心しろ。ただ、この先もずっと俺が預かる。それだけだ』
『………』
『返事』
 じろりと睨まれて、エリスはしょんぼり頷いた。
『………………はい』
 そういういきさつがあって、エリスはもう二度と生き物の絵だけは描かないとレスターと約束し、このヘルムートの絵もそれ以来ずっと預けていたのだ。
 本当に火にくべられたりはしていなかったので、それにはホッとしたけれど、でも完成させることもできず誰にも見てもらえないのなら、どこでどうなろうと同じことのようにも思えた。
 ヘルムートに見てもらえないのなら。
 それから少しのあいだ、エリスはその絵を眺め、また元通りの場所に戻した。
 その直後だ。

 コロコロコロ……

 戻した額縁が偶然それに当たったのだろうか、追いかけていた小さな玉が奥のほうから転がり出てきて、エリスは驚いた。
 手のひらで受け止める。
 間近で見ると、本当にとても綺麗な玉だった。
 そういえば、ルイーゼがこういうキラキラしたものを好んでいたのだ。もしかしたら、これはおじいさまのものではなく、彼女のものだったのかもしれない。
 エリスは窓辺に寄って、青みがかった透明な玉を月明かりに透かしてみた。この近くにある湖みたいに美しくて、なんだかそれを眺めていると心が凪いでいくのを感じた。
 その夜、とてもまともに眠れそうにないと思っていたけれど、エリスは自分でも不思議なくらい、夢も見ないほどぐっすり眠ることができた。
 もうひとつ不思議だったのは、眠りにつく間際、なんだか懐かしい声が歌っていたことだ。
 にゃふにゃふと、ご機嫌な調子で。









prev / 天使の落下 / next

 
inserted by FC2 system