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第九章 雨の中

「うちに何か御用?」
 そう問いかけた少女は、長い睫毛に縁取られた榛(はしばみ)色の瞳でエリスをじっと見つめた。
 花も霞むような美しい少女だった。
 陽だまりに似たやさしい色合いの金髪はさらさらと真っすぐに流れ、適度に白い肌はなめらかで、娘らしい曲線を描く頬はほんのり薔薇色に色づいている。
 小さな鼻は形が良く、ふっくらとした珊瑚色の唇は艶やかで、どこをとってもまるで人形のような愛らしさがある。
 エリスにはまったく見覚えのない相手だった。
 口ぶりや着ているドレスからして、使用人でないことだけは明らかで、それゆえ、一瞬レスターの魔法でまったく知らない家を訪ねてしまったのかと思った。
 でも、まさか彼がそんな間違いをするわけがないし、玄関や周りの景色を見ればヘルムートの家だと――――自分が一年暮らした家だと疑う余地もない。
 だからこそエリスは戸惑った。
 見知らぬ少女が、ここを「うち」だと言ったことに。
 予想外の出来事に言葉を失っていると、彼女は淡々とした口調で再び訊いてくる。
「どちらさま?」
「…あ…、わたし……」
 何か言わなければと思うのに、言葉が続かなかった。
 出迎えてくれたのが、執事のセドリックや他の使用人だったら、ヘルムートと話がしたくて戻ってきたのだと、会わせて欲しいと告げるだけでよかっただろう。
 でも、この正体不明の相手には、どう言うべきか迷った。
 普通なら、この人が何者であれ、自分はこの家の主の妻だと説明し、堂々と中に入れてもらえば済む話だけれど、エリスにはそれができなかった。
 ヘルムートに『戻ってくる必要はない』と言われ、離縁の手筈をされているかもしれない微妙な立場で、どうして堂々とそんなことが言えるだろう。
 あの豊穣祭の日、彼は訣別を示すようにエリスを結婚前の名前で呼んだ。
 だから今は、彼と同じ家名で名乗ることも憚(はばか)られて、名前すら言えない。結婚前の名前でもいいけれど、それだといかにも彼と無関係の人間になったことを示すようで、それを自分でも認めているようで、嫌だった。
「あ、の……わたしは……」
 迷いながら、もう一度口を開いてみたものの、やはり今の自分が何者かを告げる言葉は見つからず、結局また口を閉じてしまう。
 ――――これでは、ただの不審者だ。
 黙ってしまったエリスを、少女は首をかしげて不思議そうに見つめた。
 エリスとは正反対に、この少女の態度はとても堂々としていた。確かに、この家の住人であるかのように。
 凛として、綺麗で、彼の隣に立っても見劣りしないような人だった。
(きっと、こんな人なら、ヘルムートさまの隣にいても……)
 お似合いに見えるだろう。
 そう思ったとき、エリスの脳裏にある言葉が蘇った。
 同時に、なんて自分は鈍いのだろうと思う。

『旦那さまには、心から慈しむ方がいらっしゃるの。もちろん、それはあなたではないわ。その方はね、旦那さまのお心を完璧に手に入れていらっしゃるの』

 夢の中で聞いた、女中のレティーが当時同僚だった少女に語った言葉。
 それが、まるで今の自分に対する忠告にも思えて、エリスは激しく動揺した。
(このひと、は)
 レティーの言っていた、ヘルムートの想い人なのだろうか。
 もし、もしもそうなら、自分の居場所はもう失われてしまっていることになる。
 彼の隣は、この少女に取って代わられていることになる。
(そんなの、やだ……)
 一度思いついてしまえば、そうとしか考えられない。
 けれど、それでも確かめなければ断定はできないと、かろうじてそう思った。
 ただ、現実を知るのは怖かった。
 喉になにかが重く圧しかかっているみたいに言葉が出てこなくて、激しい鼓動で胸が苦しくなる。悲しい現実なんて知りたくない、何も聞きたくないという気持ちが、否が応にも押し寄せてきて、エリスは思わず足を引いた。
 ――――そうして、いつも逃げてきたのだ。
 結婚式の日のヘルムートの言葉の真意も、自分のことをどう思っているのかということも、事実を聞くのが怖くて、ずっと。
(わたしは、また逃げるの……?) 
 また彼に、自分の思っていることを何も告げぬまま。
 そうして現実から目を背けて、どうなるというのだろう。
 知るのを避けたって、何も事実は変わらないというのに。
 向き合わなければ、彼とは本当にこれまでになってしまう。もう永遠に傍に立つこともできないかもしれない。
 エリスは怯みかけた心を、必死で抑え込んだ。
 彼と話をするために来たのだから、こんなところで引き返してはいけない。逃げてはいけない。同じことを繰り返したくはなかった。もう逃げないと決めて来たのだ。  
 それにもしかしたら、早合点ということもありえなくはない。彼の口からこの少女が想い人だと聞くまでは、信じたくない。
 震える唇で、エリスはなんとか言葉を紡いだ。
「わ、わたしは、エリスといいます。あの……ヘルムートさまは」
「―――まだ寝室で眠っていると思うけど」
 簡単にしか名乗らなかったエリスに、それでも素直に答えた少女は、ここで初めてにこりと微笑んだ。
 笑うと柔らかな印象が際立って、まるで童話に出て来る妖精さながらの可憐さだった。
 けれど――――その声には、ハッキリと冷たさがひそんでいた。
 エリスは息を呑む。
 自分はこの人に歓迎されていない。
 それが嫌でも伝わって、また怯みそうになる。
 でも、自分は同じようにやさしく微笑みながら、ぞっとするほど冷たい声を発する人を知っている。
 それはあからさまな態度や表情をとられるより、ずっと衝撃が大きくて。
 彼にそうされると、自分はいつも怖気づくしかなかった。
 そう、彼の方がもっとずっと、綺麗で怖い。
 嫌われたと思ったら、泣いてしまうほど悲しくなる。
 だから、目の前にいる初対面の少女に冷たくされることなど、何ということはない。ないはずとエリスは自分自身に言い聞かせる。
 彼と向き合うために戻ってきたのに、その前に別の人相手に怖気づいていてどうするのだ。
 エリスは声が震えないようにお腹にぐっと力を込めた。
「わ、わたし、ヘルムートさまに、お会いしたいんです……。だから、あの、中に入れてくださ……」
 その望みは、最後まで伝えられなかった。
 少女に遮られてしまったからだ。
「わたしの知る限りでは、あなたで六人目」
「……え?」
 何を言われたのか、エリスは理解できなかった。 
 戸惑っていると、彼女は笑顔のままさらに言った。
「例のデマを聞いてやって来た女の子のこと」
「デマ……?」
 なんのことを言っているのだろう。
 エリスの疑問など置いてきぼりで、彼女は続ける。
「そう、デマ。あなたもこの隙に彼を誘惑して、我が物にしようと目論んでやって来たんでしょうけど、そういうことだから、お引取り願える?じゃ、さよなら」
 あっさりした口調で言い切られ、扉が目の前で閉じられようとする。
 エリスは慌てて声をかけた。
「ま、待って……!」
 すると、扉はぴたりと途中で止まった。
「他に何か?」
 先ほどより狭くなった隙間から、少女はエリスに視線を注いだ。
 そのありふれた榛色の瞳は、ヘルムートの持つアメジストの瞳のように神秘的でもなんでもないのに、真っ向から視線がぶつかるとなぜかドキリとした。
 同じ年頃に見えるのに、とても深くて静かな瞳をしているからだろうか。
 それとも、何を考えているかまるで読めない、けれどこちらのことはすべて見透かしているような、不思議な瞳をしているからだろうか。
 エリスはその瞳を知っている気がした。
 そう、とても見慣れた………レスターや、彼のおじいさま――――魔法使いの謎めいた瞳に似ているのだ。
 そう思ったら、エリスの口からは、怖くて訊きたくなかったはずの最大の疑問が無意識のうちに口をついて出ていた。
「あなたは、だれ……?」
 すると、少女はゆるりと微笑んだ。
「わたし?」
 そして、やはり表情を裏切る冷たい声ではっきりと告げた。


「わたしは、ヘルムートの妻」










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