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第九章 雨の中

 まるで冷水を浴びせられたような心地がした。
 エリスは茫然と言われた言葉を繰り返した。
「つ、ま……?」
「そう。妻。奥さん。伴侶。ちなみに彼とは離縁する予定はないから、あなたはここですっぱり諦めて、他の相手を見つけてね」
 冷たさをふくんだ声は、ゆったりと落ち着いた口調で語る。
 でも、まるで頭に入ってこない。
 先ほどの一言が衝撃的すぎて、他は耳から耳へと通り抜けていく。
「聞いてる?」
 のんきに返事などできる状況ではなかった。
 ヘルムートの妻だという、その言葉がゆっくりと浸透していくにつれ、これまでにない絶望が胸を満たしてゆく。
 ―――――もう、すべて手遅れだったのだ。
 エリスは足元から崩れ落ちないのが不思議なくらい血の気を失った顔で、その場に立ち尽くした。
 一方の少女は、エリスがあまりに衝撃を受けているのが意外なのか、少し首をかしげながら言った。
「ほかの子も驚くには驚いていたけど、あなたみたいにこの世の終わりみたいな顔した人は初めて。……本気で彼のこと好きだったんだ?」
 ごめんね、と同情的な一言が付け加えられた。
 けれど何を言われても、どんな眼で見られても、今のエリスには気にするだけの余裕はなかった。
 大粒の涙が、その煌めく緑の両目から零れ落ちる。
「ふ……っ、ぇ……」
 泣かないと決めていたのに、今も、泣くまいと思っているのに、意思とは無関係に涙が流れ落ちる。
 張り詰めていた心の糸は、たった一言の衝撃でいとも簡単に切れてしまった。
 ぼろぼろと堰を切ったように涙が零れ落ちて、エリスはとうとう両手で目元を覆ってうつむいた。
 一瞬にして足元に水溜りができるのではないかというくらい、止めようもない悲しみが溢れてくる。
「ねぇ、ちょっと……困ったな。泣くのはヨソへ行ってからにしてほしいんだけど」
 本気で困っているようには聞こえない、淡々とした口調で言いながら、はいコレあげるから、と少女はエリスの片手に無理やり白いハンカチを握らせた。
 その手が離れたときだった。
「―――ジーナさま?」
 ふいに、少女の向こう側から若い男の声が聞こえてきた。
 覚えのある声だった。
 ヘルムートの声ではないけれど、エリスはのろのろと顔を上げた。
 でも、涙が止まらず視界は歪んでいるし、そもそも目の前の少女に遮られる形になっていて、その背後の様子はまったく分からなかった。
 少女は顔を横に向け、その相手に言葉を返した。
「ハイハイ。なぁに?」
 ジーナ、というのがこの人の名前らしい。
 名前にも覚えがなかった。
 でも、あろうがなかろうが、もはや瑣末なことだった。
 ヘルムートは自分とはもう離縁していて、新たにこの人と結婚している。
 エリスにとって、それ以上に重要な事実などありはしない。
 自分はもう、彼の傍にはいられなくなったのだ。
 どんなに言葉を尽くしても、きっともう、彼が自分を受け入れてくれることはない。
 たった数日の間に再婚してしまうほど、この少女を愛しているのだから。 
 エリスが悲嘆している間に、若い男の声は少女に言った。
「何じゃありませんよ、また勝手にお客さまのお相手をなさって。ほら、代わってください。―――どなたが?」
 その人からは、玄関先に人が立っているのが少しは見えるらしい。
 少女が横を向いたまま、その問いに答えた。
「またヘルムート目当ての子だよ。いま帰ってもらうところ」
「はぁ、またですか。ていうか……あの、助かりますけど困ります」
「どっち?」
「いや、われわれはいいんですけど、旦那さまには余計なことをしないようにと、きのうも注意されていらしたでしょう?」
「うーん。でも、そういう子たちにいちいち中に入って来られると落ち着かないじゃない。こっちが無視していても、向こうが勘違いして絡んでくるし。わたしの立場で言うのもなんだけど、ホントにうっとうしいよ。―――なんであんなデマ放置しているんだか。昔から頭の軽い女の子にまとわりつかれるの嫌いなくせに、らしくない」
「旦那さまには旦那さまのお考えがおありなんですよ。とにかく、お客さまのお相手は代わりますから、ジーナさまは大人しく部屋に」
「あ、わたし散歩に行こうと思ってたんだった。ちょっと行ってくるね」
「え?じきに雨が降りそうですよ。ていうか、侍女の一人くらい付けてくださいよ!」
 少女はそれを無視して、エリスのほうに向き直った。
 そして、ぱちりと瞬きして一言。
「あれ?まだいたの?」
 悪気があるのかないのか判断できかねる口調だったけれど、そのとても短い言葉に繊細なエリスの心は間違いなく傷ついた。
 返す言葉もなく、またうつむく。
 ぽたっ、と涙が落ちた。
(だって、どこに行けばいいの……?)
 帰りたい場所はここだった。
 会いたい人も、ここにいる。
 エリスはきゅっと唇を噛んだ。
 ハンカチは使わず、反対の手の甲でごしごし涙をぬぐう。
 乱暴にしたから、きっと目のまわりは真っ赤になっている。相手から見れば、さぞみっともない様子だろう。
 でも、エリスはかまわなかった。
 いつもみたいに、綺麗な人を前にしても気後れしていなかった。
 どうせもう、手遅れなら。
 彼の隣に立つのにふさわしくないとかごちゃごちゃ考えて、見劣りする自分の姿を気にしても意味がない。
 みっともなくても情けなくても、誰にどう呆れられようと、もう一度でいい。
 彼に会って、想いを伝えたい。
 その意思は、まだ消えてなどいない。
 ただこの場で見知らぬ人に追い返されたくはなかった。
 エリスはすぅ、と息を吸った。
 自分に出せる最大の、けれどかすかに震える声で叫んだ。
「ヘルムートさまぁ……!!」
 









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