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第九章 雨の中

 その瞬間、少女は驚きに目を瞠った。
 まさか叫んで本人を呼ぶとは思わなかったのだろう。
 エリスは弾む息に胸を押さえる。
 心臓があり得ないくらいに鳴っていた。
 自分で自分のしたことが信じられない。
 こんなに大きな声を出したのは初めてかもしれない。
 気が昂ぶって全身が震えている。
 肩を上下させていると、目の前から呆れたような、感心したような声がかけられた。
「見かけによらず、度胸あるんだねぇ……」
 その言葉をかき消すように、慌てたような声が聞こえた。
「ジ、ジーナさま!そこどいてください」
「ん?」
 ひょい、と少女が素直によけると、間髪入れず扉の片側が大きく開かれた。
「ああ……声が似ているから、まさかとは思いましたけど、やっぱり……」
 少女の代わりにエリスの正面に立ったのは、見覚えのある青年だった。
 いや、見覚えがあるどころか、エリスはもう彼の名前をちゃんと覚えていた。
「……ロビン……?」
 夢の中で、ヘルムートと林檎酒の話をしていた従僕だ。
 いつも彼の傍についている人だ。
 思わず名前を呼ぶと、ロビンはちょっと驚いたようだった。
 たぶん、エリスに名前を呼ばれたのが初めてだったからだろう。
「はい。―――大丈夫ですか?奥さま」
 まだ涙の乾ききっていないエリスに、ロビンは心配そうな顔をして言った。
 やさしい声だった。
 でも、答えるどころではなかった。
「え………?」
「“奥さま?”」
 その言葉にびっくりしたのは、エリスだけではなかった。
 ロビンの隣に立っている少女も、目をぱちくりさせている。
「だれ、が……?」
 もはや自分がそう呼ばれることはないはずなのに。
 エリスが呆然と訊き返すと、ロビンはさらに心配そうな顔になった。
「誰って……、エリスさまに決まっているじゃないですか。他にうちの悪……いえ旦那さまが妻と認めた方なんていないんですから。はっきり申し上げて、エリスさま以外の他の方には取り扱い不可能ですよ、あのひと」
「え、あの、で、でも……?」
 なんだかよく分からない補足までされたけれど、それを信じるなら、今この場にいる少女は本当は何者なのだろう。
 確かにさっき、その口で彼の妻だと言ったのに。
 あれは嘘だったのだろうか。
(でも、どうして……?)
 視線を向ければ、正体不明の少女はエリスを上から下までしげしげと眺めている最中だった。
「奥さま……。この子が?」
 豊穣祭で遭遇したヘルムートの浮気相手の女性にも、そんなふうに品定めするみたいに見られたことを思い出して、エリスは反射的に怯えた。
 しかし、続く反応はまるで異なるものだった。
「へぇぇー」
 感情の読めなかった榛色の瞳が、急にきらきらと輝いた。
 まるで幼い子供がすばらしいオモチャを見つけたみたいに、純粋な興味を浮かべた悪意の欠片もない眼差しを向けてくる。
「あなたがあの悪魔っ子の奥さんか。―――そっか、そうなんだ。どうりで反応がほかの子と違うわけだ。そりゃ驚くよね。ごめんね、誤解させちゃって」
 その声も一転して明るかった。
 冷たさなどどこにもなくて、むしろ親しみを込めた声に聞こえた。 
 エリスは彼女を見つめたまま、きょとんとした。
 その変わりようにも驚いたけれど、悪魔っ子とはまさかヘルムートのことなのだろうか。彼は悪魔なんかではなく、天使さまなのに。
「あの」
 エリスが訊こうと思ったのと同時に、ロビンが引きつった顔で言った。
「ジーナさま……まさか奥さまにまで使われたんですか?他の方を追い返すときの、例のセリフ……」
「おもいっきり」
 こくりと頷く少女に、ロビンは頭を抱えた。
「た、ただでさえ、こじれているのに」
 そのとき、急に人のざわめきが聞こえてきた。
「―――ロビン?さっき誰か叫んでなかった?」
「何かあったのか」
「あれだろ、どうせ旦那さまを狙う女がまた……」
 エリスからはやはり目の前の二人が壁となって見えなかったけれど、どうやら先ほどの叫び声で数人の使用人たちが様子を見に来たらしい。
 ロビンがそれに我に返ったように顔を上げて、エリスのために道を開けてくれた。
「ああ失礼しました。とにかく、奥さま、中へお入りください。ジーナさまも。ちゃんと説明して綺麗さっぱり誤解を解いて差し上げてください。散歩はその後でお願いします」
「はいはい。もちろん。散歩よりよっぽど楽しそうだし」
「あの……失礼ですが、あなたは反省という言葉をご存じないんですか?」
「つづりと意味は知っているよ」
 そんな会話を交わす少女にも視線で促され、一拍置いて、エリスはおずおずと玄関ホールに足を踏み入れた。
 その場に集まっていた四、五人の使用人たちから、いっせいに驚きの声が上がる。
「え!?」
「奥さま……!?」
 エリスは思わず数歩で立ち止まり、小さな身体を強張らせてうつむいた。
 さっきは誰にどう思われようが平気だと思ったけれど、やはり皆の反応は怖かった。ロビンは普通に中に入れてくれたけれど、いくら良い人たちだと言っても、これまでのように受け入れてもらえる状況ではないのだから。
 ところが、緊張したエリスの耳に聞こえてきたのは、ほっと安心したような声ばかりだった。
「おかえりなさいませ、奥さま!」
「よくお戻りくださいました」
「さぁ、こちらへ。外は少し寒かったでしょう」
「すぐに温かいお飲み物をお持ちいたしますね」
 顔を上げれば、みんな笑顔だった。
 いつもと同じ、やさしい好意的な笑顔だった。
 エリスはまた泣きそうになる。
 でも、今度は悲しいからではない。
「大歓迎だねぇ」
 成り行きを眺めていた少女が言った。
 エリスも同じように感じた。
 きっとそれは、気のせいではない。
「さ、奥さま」
 なかなか歩き出さないエリスに、促すように声をかけてくれた人の顔を見る。
 いつもエリスの身の回りで、一生懸命働いてくれている侍女の一人だった。
「あの、まって」
 エリスがそう声を発すると、皆の動きが止まった。
 不思議そうな顔をされる。
「どうなさいました?」
 そう問いかけてきた侍女の一人に、集まっている他の人たちに、この場にいない人たちに、エリスは言わなければいけないと思った。
「………ありがとう………」
 ぜんぜん公爵夫人としての務めも果たせず、寝ついて余計な手間ばかりかけて、自分のことしか考えていなかったのに。
 本当は、こんなふうにやさしくされる資格もないのに。
 心から良くしてくれて。
「ほんとうに、ありがとう」
 エリスは深々と頭を下げた。
 他に感謝をあらわせなかった。
「お、奥さま」
「お止めください」
 エリスはあっというまに頭を上げさせられた。
 皆うろたえて、困った顔をしている。
 ただ一人、楽しそうに瞳を煌めかせながら少女が言った。
「変わった人だね、あなた」
 確かに使用人に頭を下げるのは変わっている。
 けれど、この少女もじゅうぶん変わっていた。
 にこりと笑う。
「ヘルムートが起きてくるまで、わたしとお喋りしていようか」
 好意のにじむ声と弾むような口調でそう言うと、彼女はさっとエリスの手をとって歩き出した。まるで以前からの友人みたいに、ためらいもなく自然な動きだった。
「え……っ、でもわたし、すぐにヘルムートさまに」
 今のエリスは、ヘルムートの許しもなくこの家の中でくつろいでいられる立場にない。彼が起きてきたとき、何食わぬ顔でエリスが部屋でお茶を飲んでいたら、良い気分はしないだろう。きっと不快に思われるだけだ。
 だからすぐにでも、彼の元へ行かなければならないと思ったのに。
「じきに降りてくるよ。さっきロビンが彼を起こしに二階に上がって行ったから。奥さんが帰ってきたことを知ったら、慌てて降りてくるんじゃないかな。喜ぶと思う」
 そんなことはありえない、とエリスは落ち込みながら思った。
 何の用だと素っ気なくされたり、怒りをあらわにされたり、呆れられることはあっても、自分が戻ってきたことで彼が喜ぶなんてことはありえなくて、想像すらできない。いくら彼がやさしくても――――。









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