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第二章 エリスの天使

 ヘルムートが爵位を継いだのは、彼が十九になった春のことだ。
 彼の父親が早々に隠居生活を始めたらしく、若くして公爵となった彼はとても忙しいようだった。元来、友達の少なかったエリスは、寂しかったがきっとまた落ち着いたら会いに来てくれるだろうと信じて、我慢していた。
 そんなわけで、エリスが彼をしばらくぶりに見かけたのは、初夏に開かれた夜会でのことだった。
 エリスにとって、それは初めての夜会だった。同い年のコレットはすでにあちこちの社交場に顔を出していたようだが、エリスはなにぶん身体が弱いので、なかなか賑やかな場に参加することができなかったのだった。
 子供の頃からほとんどを屋敷のなかで過ごしたエリスは、両親に言わせると「世間知らず」らしく、この日はそんな彼女のために友人のコレットが一緒に参加してくれていた。
 伯爵令嬢のエリスと男爵令嬢のコレットとでは家格に差はあるものの、近所で唯一の同じ年の娘だということで、二人はずっと仲良しだった。
 元気いっぱいのコレットは好奇心旺盛で、エリスと違って友人もたくさんいる。彼女はいつも色々な話を仕入れては、面白おかしくエリスに聞かせてくれた。
 ヘルムートについての噂も、きっとあちこちから聞いていたのだろう。
『いい?エリス。見た目で選ぶなとは言わないけど、あのラングレー公爵だけは本当に止めておくのよ』
 過保護な幼なじみは、そう念押しして、エリスに別の青年を紹介してくれた。
 コレットと夜会で何度か会ううちに親しくなったという彼は、爽やかで快活な人だった。
 その青年とのおしゃべりは苦痛ではなかったが、すごく緊張していたせいで、何を話したのか未だに思い出せない。
 思えば、エリスがまともに話したことのある同世代の異性は、ヘルムートを合わせた二人だけだった。
 そのヘルムートは、コレットの噂話が示す通り、ずっと綺麗な女性たちに取り囲まれていた。知り合いなのだから、エリスも挨拶くらいすべきなのだが、どうにも彼らに近づく勇気はなかった。
 エリスは自分の姿を窓越しに見つめた。流行の型の淡い黄色のドレスは、可愛らしくて一目で気に入ったものだが、こうして大勢の女性と比べてみると、かなり子供っぽいように見える。とくにヘルムートの傍にいるのは、彼の隣に立つに相応しい、艶やかな大人の女性ばかりなので余計に気後れした。
 ヘルムートのほうはエリスに気づいていないのか、彼女がどんなに見つめても、全く視線が合わなかった。
 そんなふうに彼ばかり見つめていたので、コレットからまたも忠告されてしまった。
『あんなに目立つんだもの、気になるのは分からないでもないわ。でもね、エリス。うかうか近づいちゃ駄目よ。一夜でポイなんて嫌でしょ?いーい、絶対近づいちゃ駄目よ!』
 その頃のコレットは、エリスとヘルムートが知人であることを知らなかったので、しきりにそんな心配をしてくれたのだが、何もそこまで言わなくても、とエリスは思った。
 ちなみに、コレットはヘルムートとエリスの交流を知らなかったが、ヘルムートのほうはエリスが何かの折に彼女の話題を出したので、名前だけは知っていたはずだ。
 エリスはいつかお互いを紹介したいと思っていたのだが、そもそも二人と会うこと自体たまにしかなかったので、それはなかなか実現しなかったのである。
 しかし、やはりコレットにはヘルムートと親しくしていることを話しておくべきだった。何となく話す機会がなくて放置していたことを、エリスは少し後悔した。
 結局あんな噂話を聞いた後では、彼が知人だとすぐには言えなかったからだ。
 コレットに友人だという青年を紹介され、互いの紹介が終わった頃、ちょうど広間に音楽が流れた。
 見ると、ヘルムートは知らない女性の手を取って、軽やかに踊っていた。その姿は眩しいほどに美しく、人々はうっとりと見蕩れていた。エリスもとても綺麗だと思った。
 けれど、その唇から洩れたのは感嘆ではなかった。胸に重く圧し掛かる何かが苦しくて、そっと息を吐いたのだ。
 ヘルムートと踊っても見劣りしない、大人の色香を纏わせた女性の、胸の大きく開いた扇情的なドレスが翻るたび、エリスのささやかな胸は痛む。こちらに気づきもしない彼が見ているのは、いま目の前にいるパートナーだけ。流れる音楽に乗ってどの組よりも華麗に踊っている。
 エリスもコレットが紹介してくれた青年に誘われたが、その手をとることはしなかった。目の前の光景を見ていると、なぜだかあまりにも胸が痛くて、泣きそうなほどつらくて、とてもダンスなんてできそうになかったからだ。
(ほかの人に触らないで)
 そのとき、エリスは無意識のうちにそう思った。
 けれど、その思いの正体を深く突き詰めぬままに、逃げ出すように会場を後にしたのだった。
 

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