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第九章 雨の中

 少女はさらに続けた。
「あなたがいなくて、使用人の皆はすごくまいっていたみたいだよ。ヘルムートの機嫌がそれはもう悪くて、悪くて。顔だけは誰にも負けないくらい良いのに、ずっと眉間にシワが寄っていて台なしだった。あんな凶悪ヅラの天使、どの絵画でも見たことないよ」
「わ……、わたしに怒っているからだと……思います」
 エリスはうつむいた。
 いつも優雅な様子のヘルムートが、あからさまに顔に出して怒っているなんて。
 よほど自分のことが許せないのだ、とエリスは悲しくなった。ぎゅっ、と繋いでいないほうの手を握る。
 そしてふと、自分がまだこの少女から渡されたハンカチを持っていたままだったことに気がついた。少しシワになってしまったけれど、使ったわけではないし、このまま返してもよいだろうか。
 声をかけようとしたら、先に彼女が言葉を発した。
「そうかな。わたしはそう思わないけど。あれは、あなたに怒っているというか、あなたが傍にいないからイライラしているように見えた。だってあれでしょ、ヘルムートってあなたのこと、すごく好きなんでしょ?リドが……、ヘルムートの友達が、そう言ってたよ」
「………え?」
 この人は、なにか自分たちのことを勘違いしているに違いない。
 ヘルムートの友達だというその人も。
 今現在は置いておくとして、以前は、彼はたしかに友達としてなら自分を好きでいてくれたのだと思う。
 あの不思議な夢でちゃんと知ることができたから、そう思える。
 でも、この少女が言っているのは、きっとそういう「好き」ではない。
(ヘルムートさまが、わたしを女の子として見てくれるわけない……)
 いつか、いつかでいいから、そんなふうに見て欲しいと思うけれど、それが限りなく不可能に近い夢だということも分かっているのだ。
 美人でも可愛くもなくて、体つきも貧相で、性格だって後ろ向きで内気で、良いところといえば絵が多少上手に描けることくらいなのだから。
 なのに、どうして彼の友達はそんな誤解をしているのだろう。
 戸惑うエリスに、彼女はこう言った。
「だから、ホントに喜ぶはずだよ。ケンカして実家に戻っていた奥さんがちゃんと帰ってきてくれた、って知ったら。でも自分の浮気が原因なんだから、本来ヘルムートが頭を下げてあなたを迎えに行くべきだよねぇ。―――まぁ、あの自尊心の高い人間がそうするとも思えないけど」
「……」
 エリスは自分が実家に戻ったことになっていたのだと知って、驚いた。それもまるで、彼の方が悪いみたいになっている。
 本当に悪いのはぜんぶ自分のほうなのに。彼が浮気するのはもとはといえば妻となった自分に魅力がないからであり、仕方のないことなのだ。他に想う人がいた彼にとって、それは憂さ晴らしだったのかもしれない。
 それに豊穣祭でのことも、自分が一緒に帰りたくないとわがままを言ったのが悪いのだ。彼が困ったのも、怒ったのも無理もないことだった。
 なのに、それなのに。
(ヘルムートさま、わたしじゃなくて、自分のほうが悪いことにしてくれてた……?)
 だから、使用人たちはみんな自分を受け入れて、歓迎してくれているのだ。
 主であるヘルムートが、家を出て行ったエリスに非はないと伝えていたから。
 それに、レスター―――別の男性と一緒にいるとも言わず。
(……ヘルムートさま……)
 あの人は、どこまでこんな自分にやさしいのだろう。
 確かに怒っていたはずで、許しているというわけでもないだろうに、それでも気遣ってくれる。
 エリスの瞳に涙が滲む。
 前を向いたままの少女が、明るく言った。
「あ、そうそう、今日のお茶のお供はビスケットだって。ここの家のおやつはおいしいよね」 
 それだけとてもどうでもいい情報だった。
 しかもエリスは少食だから、午前のお茶の時間は、いつもお菓子なしにしてもらっている。
 いや、それはともかく。
 鼻歌を歌い始めた相手を、エリスは瞬きしながら見つめた。
 変わった人だと思った。
 そして、不思議な魅力を持つ人だ。
 綺麗で可愛いのに、その言葉遣いは少年のようで、淡々と冷たく話すかと思えば、次には弾むように明るく話し、落ち着いた雰囲気を持っていながら、子供のように無邪気な行動をしたりする。
 いったいどういう素性の人なのだろう。
 手が離れる気配もなく、エリスは仕方なく引っ張られる形で歩いていく。
 使用人たちは自分の仕事のためにいつの間にか消えていて、同じ廊下を進むのは自分たちだけになっていた。皆この人を放っておいても大丈夫だと思っているようで、それはただの客人ではありえないことだ。
 ――――やはり、ヘルムートの想い人という点には違いないのかもしれない。
 そう考えると、彼女がここを自分の家のように言ったことも、こんなふうに使用人の付き添いなしに家の中を自由に歩くことも納得できるのだ。きっとそういう振る舞いを、彼が許しているということだから。
 エリスは自分の足元を見下ろしながら歩く。
 自分は、もしかしたらもう二度と彼女のように、この家の中を自由に歩くことはできないかもしれないと思った。
 彼は今ごろ、自分が来ていることを知らされてどんな反応をしているだろうか。
(わたしの声……聴こえなかったのかな……) 
 あんなに大きな声で叫んだのに。
 前に悲鳴が小さいから、そんなんじゃ誰も来てくれないよ、と言われたけれど、それよりは大きな声だったと自分では思う。現に、何人かの使用人は気づいて出てきてくれたのだ。
 でも、彼は来てくれなかった。
 単純に彼のいる寝室まで声が届かなかっただけならいいけれど、まだ眠っていて気づかなかっただけならいいけれど、――――聞こえていて、そのうえで無視されていたのだとしたらどうしよう。
 ただ、会いたくないと思われたのだとしたら。
 ロビンから自分が来ていることを告げられても、彼は現れないかもしれない。
 綺麗に磨き抜かれた床が、見る見るうちに歪んでいく。
 エリスはせわしく瞬きして、すぐに顔を上げた。
 うつむいていたら、また泣いてしまう。
 結局、手に握ったままになっていたハンカチを使わせてもらうことにした。そっと目元を押さえる。早くこの泣き虫を直したい。もう小さな子供ではないのに。あまりに情けない。
 前に視線をやれば、うらやましいくらい真っすぐで綺麗な、お日さま色の髪がさらさらと揺れていた。
 繋いだ片方の手も、ゆらゆら揺れる。
 エリスの肉付きの薄い手とは違い、彼女はふっくらとした手をしていた。
 でも、大きさは同じくらいだ。エリスの手は、同い年のコレットに言わせると普通より小さいらしいのに。
 手の大きさだけでなく、この人とは背格好もよく似ている。
 それなのに、自分とはまるで異なる眩(まばゆ)い人だとエリスは思う。
 二人並んで歩いていたら、誰だって彼女の方を振り返るはずだ。
 彼も、きっと―――――……。
 居間の前までくると、少女は繋いでいた手をようやく離してくれた。
 先に扉を開けて中に入っていく彼女のあとを、エリスもうつむき加減に追っていく。
 すると、ふいに少女が立ち止まって言った。
「あれ?ここにいたの」
 意外そうな声に、エリスは何のことだろうかと顔を上げた。
 その瞬間、心臓が止まるかと思った。
 長椅子の上で、すらりとした身体を横にして休んでいる人がいた。
 その人はクッションに乗せた頭だけをこちらに向け、アメジストの瞳に驚きを浮かべている。
 ――――ああ、誰も敵わない。
 この人以上に、自分の心を揺さぶる人はいない。
「…………エリス?」
 名を呼ばれると、うれしくて、切なくて。
 どうしてだろう。
 あんなにも会いたくて、伝えたい想いがあったのに、言葉はなかなか出てきてくれなかった。
 離れていたのはたった数日のことなのに、不安でいっぱいで、後悔しかなくて、あの夢で彼の思いやりを知って、自分の愚かさを悔やんで――――そうして考えることばかりしていたからか、ずいぶん久しぶりに会ったような気がした。
「ヘルムートさま……」 
 それは吐息と共にすべり落ちた。









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