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第九章 雨の中

 ちゃんと会えた。
 向き合うのは、真実を知るのは変わらず怖い。
 でも、とても会いたかった人に、こうしてちゃんと会うことができた。
「ヘルムートさま……、わたし……」
 言わなければ。
 これまでの感謝を、謝罪を。
 胸にあふれる想いを。
 息を吸って、告げようとした。
 けれど、それより先にヘルムートがゆっくりと起き上がったので、エリスは思わず息を止めて緊張した。
 ゆるい癖のある蜂蜜色の髪が、その整った顔に影を落とすさまを見つめる。微笑まぬ彼は、まるで彫刻の天使そのままだ。とても冷たい美貌をしている。
 明るい朝の日差しの中で、おはようと言って微笑んでくれたときの温かさは、今この光差さぬ薄暗い室内で見る彼からはまるで感じられなくて。
 その硬質な気配に、エリスは一瞬にして凍りついた。
 ヘルムートは長椅子に座り、気だるげに髪をかきあげた。
 再びこちらを向いたアメジストの瞳に、エリスの心臓は跳ね上がる。
 そこには――――憤りのようなものが宿っている。
 足が震えた。
 今までにも怒らせてしまうことはあったけれど、でも、こんなふうに敵意すら感じる強いものではなかった。
 彼からの拒絶も怒りも想像して、心構えはしていたつもりだったのに。
 そんなものは何の役にも立たなかった。
 想像と現実では、受ける衝撃が違いすぎる。
 許してもらえるかもしれないなんて、どうして少しでも思えたのだろう。
(わたし、やっぱり馬鹿だ)
 いくら彼がやさしくても、思いやりにあふれていても、物には限度というものがあるのに。
 エリスはぎゅっと両目を閉じてうつむいた。
 自分は彼にそれだけのことをしてしまったのだから、どんな罵りも受けなければいけないと思った。
 彼の口から、言葉が発せられるのを待つ。
 とても長く感じられた。
 そして、エリスは自分の周りの空気が動くのを感じた。
「……エリス、顔を上げて」
 すぐ近くからの声に思わず目を開けると、視界の端に彼の靴が見えた。
「エリス」
 もう一度呼ばれた。
 エリスは彼の怖い雰囲気に気圧されて、そろそろとしか顔を上げられなかった。
 すると、彼の大きな手のひらが迫ってくる。
 無意識のうちに一歩だけ後ろに足を引いてしまった。
 だからだろう、彼の手は一瞬ためらうように止まってから、エリスの頬に触れた。それはとてもそっとした仕草だった。
 エリスはまたこの人から逃げてしまったことを恥じた。やさしい人だと知っていながら怯えて、無意識とはいえ、また彼を不快にするような行動をしてしまった。自分の愚かさが恨めしい。
 たった一歩の距離だけれど、でも、それは決してエリスが自分から開けてはいけない距離なのに。
「ご、ごめんなさ……」
 いつものように謝ろうとしたら、その言葉にかぶせる形で彼が言った。 
「……泣いたあとがあるね」
 その声は、意外にも静かだった。
 けれど柔らかさはなく、かたく聞こえた。
 エリスは視線を合わせられず、瞼を伏せる。
 それでもアメジストの瞳が逃がさないとばかりに見つめてくるのを感じた。身動きがまったくとれない。わずかな身じろぎさえ許されていない気がして。
 息をつめていると、頬に添えられていた彼の親指が、とても弱い力で目元をなぞっていく。
 背中がぞくりとして、エリスは身をすくませた。
「どうして泣いたの」
 その手は、次にやさしく頬を撫でる。
 エリスは答えられなかった。答えるどころではなかった。
 ただ頬に触れられているだけなのに、それだけなら、子供の頃にもあったのに、どうして今はこんなにも恥ずかしくて身体中が火照るのだろう。逃げ出して物陰に隠れてしまいたい衝動にかられるのだろう。
「へ、ヘルムートさま……」
 ずいぶんと、か細い声が出てしまった。
 自分はどうかしているのではないかとエリスは思う。こんな状況で、彼が怒っている中で、触れられることにドキドキしているなんて。
 ヘルムートは一向に答えないエリスに、さらに言った。
 冷たい、怒りの感じられる声で。
「誰がきみを、僕のいないところで泣かせたんだ?」
 意外な言葉だった。
 エリスは驚いて彼を見上げる。
 間近にあるアメジストの瞳には、自分が映っていた。
 ――――今の言葉は、聞き間違いだろうか。
 まるで、その泣かせた相手に怒っているみたいに聞こえた。









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