エリスの言葉が途切れると、二人だけの空間には居たたまれないほどの沈黙が続いた。
どんな答えが返ってくるのか、怖くて、聞きたくなくて、でも耳を塞ぐこともできなくて、うつむいて耐えていると、ようやく彼は口を開いてくれた。
「僕もきみが好きだよ」
それは、ひどく感情の窺えない声音だった。
初めて言われた嬉しいはずの言葉に、エリスはひやりとした。
なぜなのかは分からないまま、彼の顔を見上げ――――そして、血の気が引いた。
冷徹な眼差しに射抜かれる。
侮蔑すら含んだそのアメジストの瞳に、エリスは自分の言葉に彼が激しい嫌悪を抱いたのだと知らされて、深い絶望に打ちのめされる。
やはり、自分の想いは彼にとって迷惑でしかなかったのだ。
豊穣祭の日に彼の前から逃げて恥をかかせたくせに、いや、それ以前に結婚してからずっと酷い態度しかとってこなかったくせに、今さらずいぶんと都合のいい事を言うものだと、さすがの優しい彼も呆れ返っているのだ。
だから、「僕もきみが好きだ」というのは、きっと、単なる皮肉にすぎないのだ……。
そうと察したエリスの瞳からは、また新たな涙があふれた。
どうしても伝えたかった言葉を、大切な人に告げることができたというのに、エリスは早くも後悔した。
そんな、彼の迷惑にしかならない言葉は、口になどせず心の奥底に沈めてしまうべきだった。そうすればここまで傷つくことはなかっただろう。
彼をさらに不快にさせることもなかっただろう。
「だけど、まさか……」
と、酷薄な眼をしたヘルムートが一歩一歩近づいてくるので、エリスは思わず後ろに足を引いた。
けれど。
「きゃ…」
すぐ後ろに長椅子があることを忘れていたために、足が引っかかって再び座り込んでしまった。
外が曇っているせいで薄暗い室内のなか、さらなる影がエリスの真上から落ちてくる。
音もなく静かに身体の横に手が伸ばされた。
エリスは思わず身をすくめたけれど、その手は長椅子の背に置かれたにすぎない。
それよりも、もう片方の手に意識を向けるべきだった。
彼の指先は、いつのまにかエリスの顎を上向かせていた。
アメジストの瞳が獰猛に細められるのを、逃げることも許されず、エリスは身体を固まらせたまま至近距離から見つめ返すしかなかった。
彼は苦い笑みをこぼしながら言った。
「お前にそんな社交辞令を使われる日が来ようとはね」
「……え……?」
ここにきて、彼と話したなかで、社交辞令など一度も使っていない。
エリスはいったい何のことを言われているのか分からなかった。
戸惑いが顔にあらわれたのだろう、ヘルムートは嘲笑するように口の端をさらに上げた。そんな表情を向けられたことにも悲しい衝撃を受けたが、もっと心を突き刺したのは、彼のナイフのような言葉だった。
「あのとき頭に入らなかったのなら、今度はもっとはっきり言ってあげるよ。――――お前は、もう、僕には必要のない人間だ。だから、ここへ戻って来る必要はない」
感情の篭もらない声が、聞き間違うことすら許さないというように耳元で告げた。
いつしか全身で震えていたエリスの、大きく見開かれたままの目から涙が流れ落ち、顎を掴んでいた彼の指先を濡らした。
それを汚らわしく感じたのか、彼は手を離して上体を起こすと、その場に立ったまま無表情にエリスを見下ろし、こう言った。
「僕はもうお前なんか好きじゃない。好きだのなんだと、今さら言われても虫唾が走る」
彼は部屋の扉に向かって歩き出した。
そして、ふと立ち止まって、長椅子に座り込んだまま身動き一つ取れなくなったエリスの後ろ姿に向かって、残酷な言葉をつけ加えた。
「あいつが迎えに来るまではいてもいいが、来たらさっさとうちから出て行ってくれ。用が済んだのにいつまでも居座られては目障りだからね」
エリスはそれらの言葉に傷つき、ただ涙を流すばかりで、彼がまたどんな冷たい眼で自分を見ているのか知るのが怖くて、振り返ることもできなかった。
やがて扉が開く音がし、そして、声を押し殺して泣きじゃくるエリスの上に、無常な音を響かせて閉じた。
* * *
エリスは震える手でジーナから渡されていたハンカチで目元を押さえた。知らず話の間中にぎりしめていたから、くしゃくしゃになってしまっている。でもそれを気にする余裕はなかった。
いくら拭っても涙はまた新たにあふれてきて、きりがなかった。エリスはすっかり濡れてしまったハンカチを握り締めて、よろよろと立ち上がった。
泣いているせいだろうか、ここへ来たときよりも心なしか身体が重くて、足元がおぼつかない。それでもなんとか歩いて、部屋の扉を開けて廊下に出た。
辺りはしんとしていた。
人払いがされていたのかもしれない。
それは、赤く泣きはらした目をしているエリスにはありがたいことだったけれど、そのことにホッとするゆとりはなく、ただ重い足取りで玄関を目指して歩いた。
(はやく……出て行かなくちゃ……)
そうしないと、また彼を怒らせてしまう。
ここは自分の家ではないのに、いつまでもいては迷惑になる。
嫌な顔をされて、冷たい眼を向けられる。
つい先ほどの彼の様子がまざまざと蘇り、エリスはその残像から逃れるように玄関ホールまで辿り着いた。もうこれ以上あの眼差しに射抜かれたくはなかった。悲しくて、怖くて、もう一度でも同じように冷たくされたら、二度と立ち直れなくなってしまう。いや、もう前向きなことなど一切考えられないくらい、十分に傷ついていた。
ぜんぶ、元はといえば自分に原因があるのだと分かっているから、余計に辛かった。自分の愚かしさをどうしようもなく悔やんだ。
どうしてもっと早くに想いを伝えなかったのだろう。
嫌われてしまっている今になって伝えても、嫌悪を抱かれるだけなのに。
せめて、まだ普通に、昔からの知り合いとして、友達として好きでいてくれたうちに伝えていれば。
エリスは玄関の重厚な扉の、片側を押した。
いつも使用人の誰かに開けてもらっていたから、自分で開けるのは初めてだった。ひ弱な腕の力では、その重い扉を全部開けるのは至難の業だった。身体中が重くて、いつも以上に力が出ないので、自分がなんとか通れるだけ開けた。
とたんに激しい雨音が耳を打った。
「雨……」
いつの間に降っていたのだろう。
先ほどまでいた部屋にも窓は確かにあったのに、エリスは気づかなかった。それほど目の前にいた人にだけ集中していたのだ。
思い返したアメジストの冷たい眼差しが、弱虫な自分の背中を外に押しやる。
でも、どこへ向かおうとしているのかは自分でも分からない。
ただ彼に拒まれ、見捨てられたという事実が足を前に突き動かす。ここにいてはいけない。彼は目障りだと言った。迎えが来るまではいていいと言われた気がするけれど、でも、彼の心情を思えば一刻も早く出て行くべきだ。
そもそも、迎えなんてないのだから。
彼はなぜかレスターがまた迎えに来るものと思っていたけれど、それはありえない。だって、レスターは自分たちが仲直りして、ここで暮らしていくものだと思っている。自分が望んだことを、彼も願ってくれているはずだ。
今度は言いたいことを呑み込むなよ、とレスターは別れ際に言ってくれた。
でも、とエリスは激しく降る雨と、重く立ち込めている濃い灰色の雲を見つめて立ち尽くした。冷たい風が雨粒と共に頬を打つ。
ちゃんと一番伝えたい想いは口にできたけれど、彼にはすでに嫌われてしまっていたのだ。何を言っても、無駄だったのだ。
そのうえ、あそこまで強く拒絶されてしまったら、心が折れてしまって、これ以上なにも告げる言葉が見つからない。すがりつくことも許されない。それどころか、ただ密かに想い続けることすら、もう許されない気がしていた。
できるのは、これ以上彼の目の前に現れて、不愉快な気分にさせないことだけだ。
背後で重い扉が音を立てて閉まった。
まるで彼との縁が切れてしまったことを告げるみたいに。
エリスはどこに向かっていいのかも分からないまま、濡れた石の階段を下りはじめた。目障りだ、必要ない、と言った彼のこの上もなく冷たい声が頭の中でくり返されて、追い立てられるように足を動かした。
けれど嵐みたいに吹きすさぶ雨風が、凝った造りの手すりと足場を濡らし、たった数段の階段を下りるのも困難だった。エリスはそうする必要もなかったので、こんな雨の強い日に外出したことなどなかった。慣れない足どりで一段ずつ降りていくけれど、激しい雨で濡れた髪が頬に張りついたり、視界を遮ったりするので中々すばやくは動けない。
そもそも身体が本当に重くて、また例によって熱が出始めている気がした。
しかし、そんなことを気にしている余裕はなく、なんとか最後の一段に足を下ろそうとしたのだが――――。
「奥さま……!?」
背後から急に声をかけられて、エリスは振り返った。
誰かが階段の上に立っているのが分かったけれど、顔を確かめることはできなかった。
踏み出しかけていた足が宙をさまよい、もう片方の足が滑る。
とっさに手すりを掴もうとしたけれど、ひどく濡れた手すりは役目を果たしてはくれなかった。
直後、エリスは頭に強い衝撃を受けて、目の前は濃い闇に覆われた。