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第十章 世界で一番の贈りもの

 エリスはルイーゼの質問に、もう一度きょろりと辺りを見回して、それから目の前にいる二人を見て答えた。
「お花畑……」
「うん、まあ間違っちゃいないけど」
 ルイーゼは片手で額を押さえ、やれやれ、と首を横に振った。
「アレイスター……、昔も思ったけど、この子ちょっとおっとりすぎやしないかしら」
「そこがおひいさまの良いところだよ」
 アレイスターおじいさまは、エリスの目を見てにっこり微笑んだ。
 エリスもそれに微笑み返す。
 大好きだったアレイスターおじいさまとルイーゼは、どちらも記憶にあるのとはずいぶん違う姿だけれど、思いがけず会えて嬉しかった。なんだかほわんと心が温かくなる。
 さっきまですごく寒かったから、ホッとした。
 そう、心が凍てついてしまいそうなくらい。
 でも、どうしてかは分からない。
 すごく悲しいことがあったような気がするけれど、やはり深く考えることはできなかった。
「んもう。二人でほのぼのしている場合じゃないでしょ。アレイスター、早くこの子を送ってあげなくちゃ。いつまでもこんなところに置いていたら良くないわ」
「ああ、そうだね」
 二人から同時に手を差し出されて、座り込んだままのエリスはそれらをじっと眺めた。
「なにしてるの、お嬢ちゃん。さあ、早く手をとって」
「あの……」
「どうしたんだね」
「わたし……」
 穏やかな風が、エリスの頬を撫でていく。
 辺り一面に咲き誇る花々が、やさしく揺れていた。
 きっとここは、とエリスは思う。
 きっとここは、もう何にも傷つくことのない世界なのだ。
 やさしいものでできた世界なのだ。
「わたし、ここにいたら、だめ……?」
 どうしてかは分からないけれど、なんだかとても疲れていて、途方にくれていて、このまま、この穏やかな場所に座っていたかった。
 けれど、ルイーゼは言った。
「ダメ」
「どうして……?」
「どうしても。伯爵家のお嬢ちゃん、いや、今は公爵家のお嬢ちゃんか。まぁどちらでもいいけど、とにかくあなたは間違えてココに来てしまっただけなのよ。だから、元の場所に帰らなくちゃ」
「でも」
 でも、帰るのは怖い。なぜだか、とても怖い。
 うつむいてしまったエリスに、アレイスターおじいさまが話しかけた。
「おひいさま、見てごらん」
「……?」
 その深くて静かな声は、昔と同じ。
 心を落ち着かせる効果を持っていた。
 顔を上げたエリスは、アレイスターおじいさまの指差す先を――――澄み切った青空を見て、驚いた。
「……あ、雨?」
 それを雨と呼べるのだろうか。
 空には見たこともない、山のような大粒の水滴がひとつ、今にも落ちそうに垂れ下がっていた。
 あんなものが落ちてきたら、大洪水になってしまう。
「雨ではないよ。あれは、涙なんだ」
「空が泣いているの……?」
「空ではなく、人の涙だよ。おひいさまを心配しているものの涙だ。間違ってここに来たものがいると、その人を心配しているものの涙が、時折ああして現われる」
「心配している人……」
 そう言われて、真っ先に思い浮かんだのは両親の顔だった。次に、実家の使用人たち。みんな自分を大事にしてくれていた。
「お父さまや、お母さまかなぁ……」
 いま自分がどういう状況にあるのか、いまひとつ分からないのだが、心配させているのならば帰らなければならない。やさしい両親や使用人のみんなを悲しませたくはない。
 そう思っていたら、ルイーゼが呆れ口調で言った。
「コラコラ。お嬢ちゃん、他に思いつかないの?あなたを心配しそうな人」
「え……?」
 うーん、とエリスは空の大きな水滴を見上げたまま考えて、ぼんやりした頭で答えを出した。
「あっ、レスター」
「違う。ぜんぜん違うわよ、お嬢ちゃん。いや、あの子も知ったら仏頂面のままで心配はするでしょうけど、今は違うわよ」
「じゃあ……えっと、ニコ?」
「……」
 ルイーゼはため息を吐いた。
「なんてあわれな」
「自業自得じゃないかね」
「アレイスター、あなたって普段やさしいくせに時どき辛辣で素敵」
「そういうきみは辛辣なのに意外と優しくて素敵だよ、ルイーゼ」
 夫婦はそう言い合って、それぞれエリスの手をとって立たせた。
「さて急ぐとしよう。あの涙が落ちてきてはひとたまりもない」
「そうね、さくっと行きましょう」
 エリスは二人に手を引かれ、今にも落ちそうな大粒の涙の下を、ぽてぽて歩くことになった。
 そうして、しばらく三人でのどかな花畑を歩いていると、やがて遠くに家々が立ち並んでいるのが見えてきた。
「家がある……」
「そりゃあ人がいるんだもの。家がなくちゃ」
「ルイーゼとアレイスターおじいさまの家もある?」
「もちろん。あの青い屋根の家よ」
 エリスと繋いでいないほうの手で、ルイーゼは青い屋根の家を指差した。遠目にも、こじんまりとした可愛らしい家だった。
「見に行ってもいい……?」
「ダーメ。あんなところまで行ったら、お嬢ちゃんは二度と戻れなくなるわ」
 そっか、だめなんだ、とエリスは相変わらずぼんやりした頭のままで納得した。
 そして、ふと気づいた。
「わたしのおじいさまや、おばあさまもいる……?」
 すると、アレイスターおじいさまとルイーゼは顔を見合わせた。
 おじいさまが言う。
「残念ながら、彼らはもっと奥のほうにいるよ。私たちもそろそろ、そちらに引っ越さなければいけなくてね」
「入り口付近にいつまでも居座られちゃ迷惑なんですって。まったく、こうるさいんだから」
 ルイーゼは独り言のように呟いた。
「ここがいちばん下を見るのに良い場所なのに」
「下?」
 エリスが訊き返すと、ルイーゼは笑みをこぼした。
「レスターがご飯を食べているところや、ニコが菜園の草むしりをしているところなんかを眺めるの」
「いつも見てるの……?」
「まさか。あたしたちだって二人きりでいちゃいちゃしながら過ごすのに忙しいのよ、お嬢ちゃん。暇なときにしか眺めないわ」
「ルイーゼはしょっちゅう眺めているんだよ。まあよく飽きないものだと思うくらい、毎日毎日。私はほとんど放って置かれている」
「ちょっとアレイスター!なんでバラすの!冷徹な魔法使いと言われていたカッコイイあたしのイメージが台無し!」
「台無しも何も、おひいさまは魔法使い時代のきみを知らないから、いいんじゃないかね」
「くーるな猫時代は知っているじゃない!」
「あれはくーるだったのかね」
 おかしいなぁ、とエリスは微笑む。
 おかしくて、でも、やっぱり胸が痛んだ。
 仲良しな二人が、無性にうらやましかった。

 









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