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第二章 エリスの天使

 その晩、夜会から自宅に戻ったエリスは少しぼんやりしていた。熱気に当てられたのだろうと初めての夜会を振り返れば、思い出すのはヘルムートのことばかりだった。
 綺麗な女性たちに囲まれた、誰よりも輝いて見える人。
 エリスはそれまで思いもしなかったが、ヘルムートは意地悪でもあんなに素敵なのだ。年齢的にみても、恋人の一人や二人いてもおかしくはない。いや、二人はおかしいけれど。
 エリスはそこでコレットの『ポイ捨て』発言を思い出した。
(……へ、ヘルムートさまはそんなことしないもん) 
 しかし、遊んでいないのなら、特定の恋人がいるかもしれない。あの、ダンスを共にしていた女性のように、ヘルムートと並んでも見劣りしない美しい人が。
(……)
 エリスは、そういえば最近、ヘルムートが自分のところには来てくれなくなったことを思った。
 爵位を継いで忙しいこともあるだろうが、もしかすると恋人ができてエリスに構う暇までなくなったのかもしれない。いや、それとも単にエリスと過ごすことに飽きたのかもしれなかった。
 エリスは某友人から『お前って一人でいるとロクな考え方しねぇな。死ぬほどうざい』と言われたこともあるほど後ろ向きな性格だった。
 ぐるぐるヘルムートのことばかり考えていると、そのうちあることを自覚して、自分でも不思議なくらい悲しくなった。
(……ヘルムートさまは、皆のものだったんだ)
 昼下がり、一枚の絵を一緒に見ていた天使は自分だけの特別な存在なのだと、エリスは知らぬ間に思い込んでいたようだ。
 実際は、あんなに遠いところにいる人なのに。あの日、丘の上で偶然出会わなければ、たぶん彼は自分などにはかまってくれなかっただろう。




 それから数日間、エリスは困惑しながら考えていた。
(……次にヘルムートさまに会ったら、どんな顔をすればいいんだろう)
 噂が真実でなければいいと祈るように思いながら、エリスはヘルムートの来訪を待っていた。
 しかし、やはりヘルムートは多忙なのか何なのか、結局それからしばらく会うことがなかったのだった。 




 数週間が経ったある日、エリスは両親に驚くべき話を聞かされた。エリスに結婚の申し込みがあったのだという。
 相手は侯爵家の、二歳年上の会ったこともない青年だった。ヘルムートほどでないにしろ、整った顔をした人で、自信に満ち溢れた性格をしていた。
 なんでも、あの一度しか出ていない夜会でエリスを見初めたのだそうだ。
 エリスは不思議でならなかった。いったい、こんな自分のどこがいいと思ったのだろうか。
 健康的とはほど遠い体つきの、綺麗でも可愛くもない自分のどこが。
 エリスは自分に魅力がないことを自覚していただけに、ただ困惑した。
 それに、その人は言った。
『貴女は絵をお描きになるそうですね。――――でも、女性は絵なんて描くものじゃないですよ。刺繍をしたり詩を詠んだり、そういう趣味を持つべきです。あなたはこの私の妻になるのですから、今後は相応の趣味を持つようにして下さいね』
とか何とか言われて、エリスは呆気にとられて何も反論できなかった。
 ただ、まるで嫌な人だったかと言えば、そうでもなかった。その青年は、いつも花束を抱えて現れた。
『うちには王宮勤めをしていた庭師がいるんですが、そいつが素晴らしい庭を作るんです。ほら、綺麗に咲いているでしょう。貴女にも見せて差し上げたくて。今度具合がよかったら、ぜひうちの庭を見に来てください』
と言って照れくさそうに笑う顔を見て、エリスは傲慢なところはあるけれど、悪い人ではないと思った。
 しかし、結婚のことを考えれば考えるほど頭が重くなり、吐き気がして、倒れこむように横になったベッドで真っ先に浮かんだのは、ヘルムートと過ごしたあの穏やかな時間だった。
 このまま結婚したら、もう二度とあんな時間を過ごすことはできないのだろうか。そう思うと、かつてないほどヘルムートに会いたいと願った。 
 最後に言葉を交わしたのなんて、彼が公爵位を継ぐ寸前のことだから初春のことになる。

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