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第十章 世界で一番の贈りもの

 ――――誰かが自分の手を握っている。
 強く、強く。
 目を開けて、エリスはわずかに首を動かした。
 すると、ぼんやりとした視界の中に蜂蜜色の頭が見えた。
 真っ暗な部屋の中で、燭台の明かりに照らされている。
(……ヘルムート、さま……?)
 どうしたのだろう。
 いつもは綺麗に整えられている髪が、乱れているのが珍しかった。
 それに、心なしか、しょぼんと肩が下がっている気がした。
 うつむいているので表情はわからないけれど、まるで落ち込んでいるように見える。
 あるいは、祈りを捧げているようにも。
(へんなヘルムートさま……)
 自分の知っている彼は、時々は困った顔もするけれど、でも、それ以外のときは自信に満ちあふれている。こんな風にうなだれているところなんて見たことがなかった。
 だから、きっと、これは夢の続きなのだろう。
 それが大事なものであるかのように、彼が自分の手を両手でぎゅっと握り締めてくれているのも、そこに温かな雫が落ちて、繋がった手の上を伝っていったのも。
 みんな自分の創り出した夢でしかないのだ。
(でも……手、あたたかい……)
 そう思ったときだった。
「エリス……」
 うつむいたままの彼の声が、静かな暗闇に切なげに響いた。
 エリスはかたく繋がっている手を見つめる。
 そこにまた雫が落ちて、流れていく。
 ――――これは自分の見ているただの夢。
 でも、どうにかして、いつもの彼に戻してあげなくちゃ、と思った。
「泣かないで……」
 それは、囁きに近かった。
 エリスは蜂蜜色の頭を、空いている方の手でやさしく撫でた。
 昔、自分が泣いているとき、彼がそうしてくれたように。
「エリス……?」
 はっとしたように顔を上げたヘルムートの目は、赤くなっていた。
「エリス、――痛いところはない?気分は?」
 心配そうな声で訊きながら、ヘルムートは椅子から腰を浮かせると、ベッドに横たわるエリスの顔を覗き込んだ。
 その左手が頬に添えられる。
 右手は、まだエリスの手をしっかりと握っていた。
「エリス……?」
 何も答えないエリスに、ヘルムートの顔が曇る。
 アメジストの瞳は、涙に濡れていた。
 それをぼんやり見つめ返していると、青空に浮かぶ、山のように大きな雫が脳裏に蘇えった。
(あれは、ほんとうに……ヘルムートさまの涙だったのかな……)
 アレイスターおじいさまとクマは、大きな柄杓(ひしゃく)で涙を受け止めずに済んだだろうか。
 それから、ルイーゼ。
 猫だったのに、猫じゃなくなっていた。
 綺麗な女性の姿になっていたルイーゼは、なんだかおかしなことを言った。
 レスターの秘密。
 本当だとしたら、とても嬉しい。
 どういう訳でそうなのかは分からないけれど、でも、それが夢じゃなくて本当のことだったらハッキリする。
 だから自分は、こんなにもレスターが好きなのだと。
 出会ったその日から、怖い雰囲気の子だなぁと思いながらも、かまって欲しくて仕方なかったのだと。
 どんなにそっけなくされても、冷たくされても。
 それでもめげずに仲良くなりたかったのは、諦め切れなかったのは。
 目に見えない深い絆を、知らず感じていたからだったのだ。
 エリスは、単なる夢だと思いながらも、そんな風に思った。
「ヘルムートさま……」
「ん?どこか痛い……?」
「ううん……痛くない……」
 そう答えると、ヘルムートはホッと息を吐いた。
 彼はベッドの縁に腰かけると、エリスの頬に添えていた手で、今度は栗色の髪に触れ、先ほどのお返しのようにゆっくりと頭を撫で始めた。その心地良さに、エリスは安心して目を閉じる。
(うれしい……)
 彼が傍にいて、自分に優しくしてくれている。
 手を繋いでくれている。
 昔みたいに、頭を撫でてくれている。
「ヘルムートさま……、あのね、わたし、嬉しいことがあったの……」
 今このときと同じくらい、幸せな夢の中で。
「レスターがね……」
 その瞬間、エリスの手を握るヘルムートの手に、ぎゅっと力が篭もった。
 でも、うつらうつらとしているエリスは、そのことに気づかなかった。
 ただ、もっと彼と普通にお喋りしていたくて、さっきまで見ていた夢の断片を語った。
「レスターが……、わたしの」
「――うん」
 低くて、寂しそうな声で、彼は相槌を打った。
 寝ぼけているエリスは、ほとんど独り言のように続けた。夢の中でルイーゼに内緒にすると約束したのに、そのことは思い出さぬまま。
 そうして、エリスの意識は再びまどろみの中に沈んでいった。
 一方、穏やかに眠り始めたエリスを見下ろしたまま、ヘルムートの頭は一瞬思考停止していた。
「…………」
 今、ものすごく変なことを聞いた。
 いや、しかし、エリスは寝ぼけているようだった。
 だから、事実ではないはずだ。
 そんなはずはない。
 あの態度のでかい、いけ好かない、憎たらしい魔法使いのことは、自分だって子供の頃から知っている。エリスの家に遊びに行くと、まったく忌々しいことに結構な頻度で遭遇していたのである。
 だから、どういう性格かはもちろん、暮らしぶりも家族構成も、別に聞きたかったわけではないが、エリスを間に挟んでの会話の中で知り得ていた。
 知り得ていた、が。
(そういえば、親の話は聞いたことがない)
 ヘルムートは、ボンヤリおっとりとしたエリスの父親を思い浮かべた。
 あの、『善良』と『誠実』を混ぜ合わせてできているような人間が――――。
 想像もつかないし、エリスがただ寝ぼけていただけだという可能性のほうが高いと思いながら、けれどヘルムートはその一言をたやすく聞き流すことはできなかった。
 すやすやと眠る彼女を、じっと見つめる。
「だとしたら……それが事実なら」
 この子がアレに懐いている理由は、まるで違ってくる。
 というか、彼女は先ほど、それを『嬉しいこと』だと言わなかったか。
 ヘルムートはエリスの片方の手を初めと同じように己の両手で握り締めると、長い溜め息を吐いた。
「……僕は、きみを諦めなくてもいいのかな……」
 質問のような独り言を漏らしたものの、もう諦める気など綺麗さっぱり失せていた。
 結婚してから笑ってくれず、普通に話すこともできない、どう見ても幸せそうではない彼女を見ていたら――――レスター・オルスコットに、彼女が想いを寄せているかもしれない男に、泣きながら助けを求める姿を見てしまったら、最後には諦めるしかないと思って、一度は手放したけれど。
(馬鹿だった)
 その時はそうしなければ、昔のように曇りなく笑う彼女はもう見られないと、なんだか弱気なことを思っていたのだ。本当は自分が笑顔にして、幸せにしたかったけれど、一年以上ぎくしゃくとしたまま過ごして、彼女もきっとそうだが、自分の心も疲れていて。
 自分といるより、レスター・オルスコットといるほうが、彼女は幸せなのだろうと思った。
 ところが、そうして激しい嫉妬を抑え込んで手放したというのに、彼女はのこのこ戻ってきた。
 レスター・オルスコットをかばうため。
 そして、こちらに対する、ただの気遣いなんかで。
 正直言って、無性に腹が立った。
 他の男をかばう言葉もそうだが、彼女の行動自体に。
 自分は離縁する覚悟をして、世間で流れる自分たちの噂話もそのまま放置して、必死に諦めようとしていたのに。
 その努力を無にするようなことをして。
 おまけに『好きです』などと、にわかには信じられないことを彼女は言った。
 一瞬、そのまま押し倒して既成事実作って、部屋の中に閉じ込めて、他の男のところへなんか戻れないようにしてやろうかという真っ黒な考えが浮かんだものの、なんとか理性が打ち勝った。
 やさしくて気の弱い彼女が、もうこちらに遠慮なんかしないように、本心のままに生きられるように、酷い言葉をぶつけて、泣かせて、この家から追い出すことにした。
 自分の心の中からも、永久に締め出してしまおうと思った。
 彼女のためにも自分のためにも、忘れなければいけないと思った。
 こちらの言葉に傷ついた彼女の涙を、すぐにも拭ってやりたいと、謝って、抱きしめたいという思いを退けて。
 そうして再び手放そうとした。
 でも、やはり無理だった。
 彼女の存在は、あまりにも大きかった。
 階段で足を滑らせて、頭を打ったと使用人から報告を受けたとき、心臓が止まるかと思った。医者はどこにも異常はないと言っているのに、なかなか目覚めず、もしこのまま彼女が死んでしまったら、自分も死んでしまおうと思った。本気だった。
 眠る彼女の顔を見つめながら、傷つけてしまったことをえんえんと後悔した。幸せにしたいと思っていたのに、本末転倒だ、馬鹿なことをしたと、その寝顔を見つめていたら、涙は自然に零れ落ちた。
 人のために泣いたのは、幼い頃、母親が死んだとき以来だった。
 泣かないで、と言ってくれた彼女の声が、頭の中で蘇える。
 その優しさが、愛おしかった。
 何のためらいもなく触れてくれたことが嬉しかった。
 たとえそれが、彼女にとっては夢うつつのことであっても。
 たったそれだけのことで、自分の心は満たされる。
 どうして一時でも、彼女を手放そうなどと思えたのか。
 ――――そもそも、豊穣祭で彼女に別れを告げたときから、諦めきれる自信などなかったというのに。
「馬鹿だなぁ……」
 ヘルムートは、自分自身を嘲笑う。
 だいたい、初めから間違ってばかりだ。
 彼女がどこぞの馬の骨と結婚しそうだったのを横から邪魔して、かわりに自分のところへおいでと言ったとき。
 あのとき、ちゃんと彼女の意思を確認すればよかった。
 嫌がらなかったし、子供の頃から仲良くしていたし、快く了承してくれたものと思ってしまったが、きっと本当は自分との結婚も望まぬものだったに違いない。
 だから、彼女の様子はどんどんおかしくなっていったのだ。
 彼女が男として好きなのは、もしかするとレスター・オルスコットではないかと思い始めたのは、結婚してしばらく経ってからのことだった。
 けれど、そのレスター・オルスコットは。
(……まぁ、あれが何者であろうと)
 エリスの想い人であろうと。
 自分はまず、もう一度彼女に心を開いてもらえるように努力するだけだ。
 昔のように――――。
 ヘルムートは、エリスと初めて会った頃のことを思い出した。
 そこは緑豊かな森を背にした、綺麗な丘の上だった。
 子供だったヘルムートは、自分よりももっと小さな背中を見つけた。
 その背中の持ち主は、栗色のふわふわした髪をしていて、他の子供たちが遊ぶのを時おり眩しそうに眺めながら、一人せっせと絵を描いていた。
 次に会ったとき、ヘルムートはエリスに絵の具と筆を贈った。
 そのとき、ヘルムートもエリスから贈り物を貰った。
(エリスは忘れているかもしれないけど……) 
 それはとても素敵な、きっと誰にも真似できない贈りものだった。
 でも、それ以上の、彼女がくれた一番の贈りものは――――。
「エリス、きみが僕の愚かな振舞いを許してくれるように……、他の誰より好きになってくれるように、もう一度頑張るから」
 ヘルムートは握り締めた彼女の手に、そっと口づけを落とす。
 ――――だから、どうか。
 また昔みたいに、花開くような微笑みを。








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