目覚めると、暖かなベッドの中だった。
(わたし、いつ寝たんだろう……)
眠りすぎたのだろうか。頭がぼうっとしていて、自分がどういう状況にあるのか、すぐには理解できなかった。
エリスはゆっくりと首を動かして、部屋の中を見回した。草花の装飾のほどこされた白い天井に、淡い水色の壁、見覚えのない調度品の数々が置かれていて、暖炉では薪が爆ぜている。
人は誰もいなかった。
窓に視線を向けると、紅葉した庭が見えた。
自分の部屋から見ていた景色とは違うけれど、間違いなく公爵家の庭だ。
それをぼんやり見ているうちに、エリスの思考は徐々にはっきりとしてきて、やがて何があったのか全て思い出した。思い出してしまった。
ヘルムートに大好きだと告げたこと。
でも、受け入れてもらえず、出て行くように言われたこと。
(それで、わたし、階段で滑って……)
たしか、頭を打ったのだ。
不思議なことにまったく痛みは感じないけれど、あの瞬間は大きな衝撃があって、目の前が真っ暗になって――そこから先は、何ひとつ覚えていない。
エリスは片手を動かして、目の前にかざしてみた。
ずっと温かい手に包まれていたような気がする。脳裏に、燭台の明かりに照らされた彼の顔がおぼろげに浮かんでくる。やさしく話しかけてくれた声までもが蘇える。
でも、あれは夢だ。現実のわけがない。自分の望みが、彼に以前のようにやさしくされたいという、もはや叶うはずもない望みが、そんな夢を創り上げてしまったのだろう。
かざしていた手は、いつしか震えていた。
緑の瞳からは涙があふれ、エリスの眦から頬へと流れ落ちていく。
どうしてこう、自分は駄目なのだろう。何ひとつうまくいかなくて、彼を不快にしてばかりで、迷惑をかけてばかりで。ただ出て行くだけのことすらできなくて。
そんなふうだから、嫌われてしまったのだ。憎まれてしまったのだ。
冷たいアメジストの瞳を思い出し、あの瞬間の感情がどっと押し寄せる。怖かった。悲しかった。嫌わないで、という言葉が胸のうちに浮かんできたのに、あまりにもつらくて声に出すことができなかった。
今も、重い鉛を飲み込んだみたいに胸が苦しい。息もまともにできない。
エリスはベッドの中でぎゅっと身体をまるめ、ヘルムートの視線や言葉をこれ以上思い出すまいとしたけれど、逃れることは無理だった。
浴びせられたきつい言葉。蔑むような視線。
ほんの少し意地悪だけれど、でも、とてもやさしい人を、ああまで苛立たせてしまったのは、本気で怒らせてしまったのは、他ならぬ自分だ。これはぜんぶ、自分が招いてしまったことなのだ。
だから、泣くのは駄目だ。傷ついていいのは自分ではない。
彼の方こそが望まぬ結婚で時間を無駄にして、本当に想う人の傍にいることもできなくて、こんな自分に振り回されるばかりで、きっと疲れて傷ついている。不愉快な思いも、たくさんさせてしまった。
(ごめんなさい……、ごめんなさい、ヘルムートさま……)
涙は止まることを知らないように溢れてくるけれど、エリスは自分の手でそれを必死に拭った。
もう一度ちゃんと彼に謝ろう。
そして、お別れをしよう……。
そうでなければ、彼は幸せになれないのだから。
(わたしが、いなくならなきゃ……)
エリスはのろのろと起き上がって、ベッド脇の絨毯に足を降ろした。
どこも痛くはないけれど、少し身体がだるかった。意識を失う前よりは良くなっているものの、また無理して動いたら、熱が出るかもしれない。
でも、意識が戻った以上、早く出て行くべきだと思った。ここに、もはや自分の家ではない場所にいていいはずはないから。
そうして、腰を上げようとした時だった。
わずかばかり開いていた部屋の扉の向こうから――廊下から、人の話し声が聞こえてきた。
「しかし殿下は……」
「うるさい、しつこい、帰れ。同じことを何度言えば理解できる。お前のその頭は空っぽか?僕は今リカルドのワガママに付き合ってやる暇はない。そっくりそのまま今の言葉を伝えておけ。ああ、ついでに要るならアレを持って帰れ。そっちにも構う暇がなくなったから」
「アレとは、あの、ジーナ様のことでしょうか。むろん、あの方にはそろそろお戻り頂かねば困りますが……。ヘルムート様もどうかご一緒に」
「くどい。それ以上食い下がるなら、お前を簀巻きにして川に流す」
「す、すまき!?」
一人はエリスの知らない人の声。もう一人は……。
会話はそこで途切れ、一人分の足音だけが、だんだんと近づいてくる。
エリスは顔色をなくした。
気づけば立ち上がって、扉とは反対側にあるテラスを目指していた。
きちんと謝罪をして出て行かなくてはいけないと、つい先ほど思ったばかりなのに、こっけいなほどうろたえて、身体は勝手に逃げ道を探していた。
しょせん、自分はどうしようもない弱虫なのだ。
もう一度彼の前に姿をさらして、また冷たくされて、これ以上傷つくのが怖くてたまらない。
エリスはテラスに続くガラス扉を開けた。とても重かった玄関扉とは違って、難なく開く。かすかにキィと音が鳴ったけれど、廊下まで聞こえるほどではなかった。
それよりも、自分の心臓のほうがうるさかった。
靴を履いていないことや、寝間着姿であることを気に留める余裕もなく、裸足のままテラスに出る。
外の空気はキンと冷えていた。
吐く息は白い。
雨は知らぬ間に止んでいて、赤や黄色に色づいた葉や芝についた雨粒が、陽光でキラキラと輝いていた。頭上には青空が広がっている。
エリスはテラスのわずかな段差を下りて、その美しい庭の奥へと向かった。走るだけの体力はなく、できるだけ早く歩いた。
裸足に触れる芝は濡れていて冷たくて、それがぬかるんだ地面に切り替わると、今度は冷たいだけではなく、歩くたびに白い寝間着の裾に泥が跳ねた。
やがて息が上がって、エリスはもうどうすることもできず、泣きべそをかきながら、ライラックの茂みの真下に力なく座り込んだ。精いっぱい移動したつもりだったのに、少し首を伸ばせば、すぐ近くに出てきたばかりの部屋が見える。
ふと、そこで人影が動くのが見えて、エリスは慌てて茂みの影に身を隠した。
今のは彼だったのだろうか。
立てた膝を両腕で抱え、エリスは小さく縮こまりながら思った。
手が震える。いや、全身が震えていた。寒さのせいなのか、恐れのせいなのかは自分でも分からない。ただあまりにも心臓の音がうるさくて、それで見つかってしまうのではないかと不安になった。
同時に、自分はなんて馬鹿なことをしているのだろうと思う。こんなところに隠れてもいずれ見つかってしまうだろうし、急にいなくなったら、公爵家の人々を心配させてしまうことにもなる。
早く部屋に戻るべきだと思いながらも、エリスは茂みの中から出て行くことができなかった。
(どうしよう……)
どうしても、もう、彼に向き合う勇気が出ない。
そう思ったときだった。
「――エリス!」
心臓が、大きく跳ねた。
彼が自分を呼んでいる。
それから一拍置いて、バシャバシャとぬかるんだ地面を歩く人の足音が近づいてきて、エリスは身を強張らせた。
その耳に、再びヘルムートの声が聞こえてくる。
「エリス……!どこにいるんだ!」
そう問われても、返事をすることなどできなかった。
大きな声が怒っているように聞こえて怖かった。
涙が滲んで、視界がぼやける。
きっと、彼は自分がまだこの家に留まっていることに怒っているのだ――――。
(もう、これ以上きらわないで……)
嗚咽を必死に飲み込もうとするけれど、不安定な心は涙を押しとどめてはくれなかった。
すぐ近くで、ひときわ大きく水の跳ねる音がした。
泣き声が、彼の耳に届いてしまう。
気づかれてしまう。
見つかったら、また怒られて、もっともっと嫌われてしまう。
膝に顔をうずめて、エリスは彼が遠ざかるのを待った。
長い間そうしていたように思う。
でも、実際にはほんの少しの間だった。
いつ足音が去っていったのかもわからぬまま、辺りは急に静かになったけれど、エリスはそれでも身動き一つできなかった。
うつむいたままでいると、足音は再び聞こえて来た。
それは迷いのない、静かな足どりだった。
――――見つかってしまったのだ。
そう思っても、エリスは潔く顔を上げて彼の姿を見ることができなかった。
やがて手の届く距離に、人の立つ気配を感じた。
「エリス」
耳朶を打つ声音に、身体だけでなく心まで震える。
大好きな人。
大好きで、ずっと傍にいてほしい人。
でも今は、何も言わずに立ち去ってほしい。
それが無理なら、自分の方がこの人の前から消えてしまいたい。跡形もなく消えてしまえたら、もうあの冷たい眼を向けられることはないだろう。傷つくこともないだろう。
ただただ怯えて縮こまるエリスに、もう一度声がかけられる。
「エリス、出ておいで」
それは意外なほど静かな声だった。
どこかこちらへの気遣いを感じさせる、やさしい声でもあった。
けれど、エリスの身体は少しも動かなかった。
拒否などしたら、彼をまた怒らせることになるかもしれないと思っても、出て行くほうが怖かった。
「エリス……」
ああ、自分はまたこの人を困らせてしまっている。
そう感じたエリスは、申し訳ないのと情けないのとで、涙をこぼした。
(ヘルムートさま……)
こんな自分に、まだやさしく声をかけてくれた彼を、やっぱり好きだと思う。
たとえ、どんなに冷たい眼を向けられても、どんなにきつい言葉をかけられても。
ほんのいっときでも優しくしてもらえたら、そうした心の痛みも忘れて、この人を好きだと思う。どうしようもない恋心で胸がいっぱいになる。
「エリス……お願いだから。身体が冷えるから中に入ろう」
そう話しかけてくれる声はやはり静かで、言葉にはいたわりが込められていた。
エリスは瞳を涙で濡らしたまま、おそるおそる顔を上げた。
すると、すぐ目の前に白いシャツが見えた。
本当に、手を伸ばせば届く距離だった。
ヘルムートは濡れた地面に片膝をつき、エリスの前にしゃがみ込んでいた。
翳りを帯びた紫色の瞳で、じっとこちらを見つめている。
そこに、あのときのような侮蔑の色はなかった。
冷たさも感じなかった。
エリスは彼の瞳に映る自分を見る。
みっともなく泣いている、情けない姿。
それを彼はどう思っているのだろう。
わからない。
その眼差しに込められた感情は、いま、とても複雑に思えて。