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第十章 世界で一番の贈りもの

「それより、もう部屋に戻ろう。身体に障るから。そんな格好じゃ寒いだろ?」
 彼はエリスの裸足のつま先や、湿った泥だらけの寝間着の裾を見下ろしながら言った。
 確かにとても寒いし冷たい。
 でも、抱きしめられて、彼の温もりに包まれている間は全然気にならなかった。
 今は、少しだけ離れている身体の隙間がいちばん寒く感じる。
(もう一度……、ぎゅってしてもらいたいな……)
 それは寒いから、だけではなくて。
「エリス?」
「……、はい」
 呼びかけられて、はっとする。
 自分の置かれている立場も忘れて、また馬鹿なことを考えてしまっていた。
 撫でてもらっていた頭には、まだ彼の手のひらの温もりが残っていた。
 永遠に消えなければいいと、エリスはうつむきながら思う。
「わたし……」
「ん……?」
 聞こえ辛いほどの小さな声だったはずなのに、彼はちゃんと訊ね返してくれた。
 優しい声に、胸が締めつけられる。
 昨日とはまるで違う、とエリスは感じた。
 今の彼は、耳を澄ましてでも自分の話を聞いてくれようとしている。できる限り、思いを受け止めようとしてくれている。
 それが伝わってきて、嬉しかった。
 ほんのわずかな勇気を得て、それでも尚おずおずと、エリスはヘルムートを見上げて続けた。
「わたし、ここにいつまで居てもいいですか……?」
「え?」
「あの……このお家、に……」
 言っているうちに、もとより小さな声はさらに小さくしぼんでいった。
 彼が虚をつかれたような顔をしたので、図々しいことを言ってしまったのだと思った。本当はすぐにも屋敷から出て行かなければいけない身なのに。その準備のために少しだけ部屋に戻ることは許されても、長々と居座ることなど許されはしないのに。
 でも、分かっていたけれど、この落ち着いた空気のままならば、彼の反応や言葉に再び傷つくのが怖いと怯える気持ちが薄れている今ならば、ちゃんと話ができる気がして――――もう少しだけ時間をもらいたいと思って、つい訊いてしまったのだ。
「あ……あの、違うんです。居座ったりしたいわけじゃなくて……、そうじゃなくて……ただ……」
 エリスは必死に弁解した。
 その言葉が続かなくなると、ヘルムートが先を促した。
「――ただ?」
 話をしたい。
 向き合って、もう一度。
 別れるために言葉を紡ぐのではなく、やり直すために言葉を紡ぎたい。
 それが今の本当の気持ちだった。
(でも、ヘルムートさまには、迷惑なだけ……)
 わがままな望みは捨てないといけない。
 言うべき最低限の、お別れの言葉以外、何も言ってはいけない。
「エリス」
 呼びかけと共に、エリスはそっと肩を手前に押された。
「……っ……」
 思わず目を閉じたエリスの身体は、再びヘルムートの腕の中に収められた。
 先ほどよりも緩く抱きしめられる。
「きみの本当の望みを言って。ちゃんと聞くから。何を言っても、もう泣かせたりするようなことは言わないって約束するから……。それだけは信じてほしい」
 真摯な声にゆっくりと上向けば、紫色の瞳にじっと見つめられていた。
 ――――きっと、気のせいだ……。
 彼が、不安そうな眼をしているように見えるのも。「信じてほしい」という言葉を、拒否されるのを恐れているように見えるのも。
 まるで、心から、彼に大切に思われているように感じてしまうのも。
 ぜんぶ気のせいだから、勘違いしてつけあがっては駄目だと、エリスは己を戒める。
 彼は、自分がいつまでもぐずぐずと出ていかないから、倒れたばかりの弱った人間だから、扱いに困って優しくしてくれているだけなのだ。
 だから、調子に乗ってわがままを言ってはいけない。
 彼の言葉を真に受けては駄目だとも、思うのに。
 震えるか細い声で、エリスは口にしていた。
「わたしは……、ヘルムートさまと、一緒にいたいです……」
 すがりつくように、ヘルムートの胸元のシャツを握り締める。
 振り払われるかもしれないと、怯えてうつむくエリスを、彼はさらに自分のほうへと引き寄せた。
 もう一度、今度はきつく抱きしめられる。
 エリスが驚いて見上げると、彼の瞳は切なく揺らいでいた。
「それが、きみの本心……?この先も一緒にいる相手が、僕でいいの?本当に……?」
 こんなわがまま、聞き入れてもらえるわけがない。
 きっと拒否されるだろうと思いながらも、エリスは視線を逸らさぬまま、涙声で答えていた。
「ヘルムートさまがいいです……」
「…………」
 言葉を失ったかのように、ヘルムートは沈黙した。
 エリスはそんな彼を見て、それからまた深くうつむいた。
 やはり、無理な願いだったのだ。
 予想していたことでも、つらかった。
 自分から傍を離れておきながら、身勝手なことばかり言う自分に、彼はきっと言葉も出ないほど呆れているのだろう。
 新たに涙を滲ませた時だった。
 膝裏に腕が差し入れられ、エリスの身体は一気にふわりと浮かんだ。
「……!」
「じっとして」
 彼はそう言うと、しっかりとエリスを抱き上げたまま茂みの外へと出た。どちらかの身体に当たった葉が、ひらりひらりと地面に落ちていくのを、エリスは茫然としながら眺めた。
 視線を上げれば、ゆるやかな陽光がほんの少し眩しかった。薄暗い茂みの中にいたエリスは、一瞬目をつむる。その間に、彼は建物のほうに向かって、雨上がりの紅葉の中を歩き出した。部屋に戻るようだ。
「あの、わたし自分で……」
「きみは歩くの遅いから。一緒に歩くより運んだほうが早い」
「……ごめんなさい」
 事実を言われて、エリスはしゅんとうな垂れた。
 そんな些細なことでも迷惑をかけてしまうなんて。
 自分の駄目さに落ち込んでいると、彼は言った。
「いや、違う。そうじゃなくて」
「……?」
「きみが歩くのが遅いから、とかじゃなくて……本当は」
 彼は言葉を探すようにゆっくりと喋っていたが、やがてどこか恥ずかしそうに、視線をそっぽに向けて言った。
「あんまり可愛いこと言うから。僕がきみに触れていたいだけなんだ……」
「――――え?」
 エリスはぽかんと口を開けたまま、今の言葉を頭の中で反芻する。
(フレテイタイ?)
 それは何語……?
 どういう意味かをぐるぐるする頭で考えようとしていたら、彼はすぐに話を肝心なことに戻した。
「部屋に戻ったら、さっきの続きを話そう。服を着替えて、あったかくして落ち着いたら、――僕もきみに聞いてもらいたいことがあるんだ」
 話の続き、と言われて、エリスの瞳は不安に翳った。
 一緒にいたいという願いへの返事は、まだもらっていないから、そのことだろう。
 でも、もう答えなど分かりきっている。
 彼はしつこい自分に、ちゃんと自分を諦めるように言い聞かせようと思っているのかもしれない……。
 エリスがそんな後ろ向きなことをしょんぼり考えているうちに、ヘルムートの足はテラスまで辿り着いた。
 開け放したままのガラス扉が、かすかな風に揺れている。
 ヘルムートはそこから部屋の中に入ると、エリスを抱き上げたまま真っ先に暖炉の前に向かった。赤々と燃える炎によって、二人はすぐに暖かい空気に包まれる。
 背後でガラス扉の閉まる音がした。
 両手のふさがっているヘルムートが閉めたのではない。
 そこで待っていた使用人たちが閉めてくれたのだ。
「着替えとお湯を」
 ヘルムートはエリスをようやく降ろしながら、彼女たちに短く命じた。
 それからひとまず全員が出て行ったので、再び二人きりになる。
「エリスはこの椅子に座って」
「でも、わたし汚れてて……」
 エリスは暖炉前に置かれている長椅子を見て、それから自分の泥だらけの足元を見下ろした。地面に座っていたから、お尻も汚れているはずだ。すでにこうして立っているだけで絨毯を汚しているけれど、椅子まで汚すことになってしまう。
「遠慮する必要はないんだよ、エリス。ここは――、きみと僕の家なんだから」
 ヘルムートはそう言い切ると、エリスに微笑んだ。
 絵画の中の天使のように柔らかく、優しく、慈しみに満ちた顔だった。
 言葉を失い立ち尽くしたエリスに、彼は言った。
「僕もきみと一緒にいたい。もう一度向き合いたい。今度はちゃんと、きみに本心を伝えたいんだ」
 自分を嫌っているのが、彼の本心なのではなかったのだろうか。
 嫌いなんかじゃないと言ってくれたのは、その場限りの嘘ではなかったのだろうか。
 自分がいたら、彼は幸せにはなれないのではないだろうか――――。
 エリスのそんな考えは、ヘルムートの表情と言葉によって大きく揺らいだ。
(ヘルムートさま……、本当に……、本当にわたしのこと嫌いになってない……?)
 信じてもいいのだろうか。
 勘違いなんかじゃないのだろうか。
「エリス、僕にその機会をくれる……?」
 彼が自分を嫌っているのなら、そんなことを求めたりするだろうか。
 自分と同じように、不安の色を浮かべたりするだろうか。
 一緒にいたいなんて、言ってくれるだろうか……。
 ヘルムートの本心を知るのは怖い。
 でも、聞かずに逃げ出したいという気持ち以上に、聞きたいという気持ちがどんどん大きく膨らんでいく。
 彼は向き合いたいとも言ってくれた。
 ここはきみと僕の家だ、とも。
 それは、未来に繋がる言葉だ。
 もう終わりにしようとする者の言葉ではない。
 自分は彼の未来にいることを許されるのだろうか。
 エリスはきゅっと己の両手を握り合わせる。
 ――――もしも結果を恐れずに向き合ったら。
 彼の言葉を信じたら。
 この先にある未来は、ほんの少しだけかもしれないけれど、良い方へ向かう気がして。
「はい」
 エリスは真っすぐにヘルムートの瞳を見て、そう答えた。








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