エリスは心配顔の侍女たちによって、すぐさまお風呂に入れられた。
その後、簡素だけれど着心地の良い寝間着に着替えて自室に戻ると、ヘルムートがベッド横の椅子に腰かけて待っていてくれた。
「ああ……、おかえり。頬に赤みがさしたね。よかった」
ほっとしたような声音だった。
エリスの胸は、それだけで締めつけられる。
もう、本当にどこにも、あのときの冷たさはなくて。
ヘルムートは立ち上がると、エリスの元までやってきて、その華奢な背をやさしく押してベッドまで歩かせた。
「きみは横になっていたほうがいい。不思議と何ともないとはいえ、それでも怪我をしたばかりだし、体調も良くないみたいだから」
「はい……」
エリスは素直に頷くと、もぞもぞとベッドの中に入る。
その際、髪がひとふさ頬にかかったのを、ヘルムートがそっと横に流してくれた。何気ない仕草のひとつひとつが嬉しくて、恥ずかしくて、エリスの頬は熱を帯びる。
侍女たちが部屋を出て行くと、彼はエリスの手を握りしめて言った。
「どこか具合が悪くなったすぐに言って。医者を呼ぶから」
「へいきです」
大丈夫。すこし身体がだるいけれど、この程度ならよくあることだから。エリスはきゅっと彼の手を握り返した。
「おはなしがしたいです……」
「ん……」
穏やかな声で応え、ヘルムートはわずかにまぶたを伏せた。
そして次にエリスを見たとき、その眼差しには緊張の色が見えた。それにつられるようにして、エリスもまた緊張する。
(ヘルムートさまの、本心……)
聞きたい。でも、やっぱり怖い。
こうしてやさしくされていても、さきほど「嫌いなんかじゃない」「一緒にいたい」と告げられた事実があっても、いやな想像はどうしたって浮かんでしまう。
今までのことは自分の聞き間違いで、「やはりお前なんか嫌いだ、出て行け」と言われるのではないかと。
エリスの不安は一気に大きくなった。
けれど。
繋がっている手のひらの温かさを感じた瞬間、その不安はきれいに吹き飛んだ。
「ヘルムートさ……」
長く続いた沈黙の後、エリスは呼びかけた。
と、ほぼ同時に。
ヘルムートは言った。
まっすぐにエリスを見つめながら。
「――――きみが好きだ」
「……え……?」
それこそなにかの聞き違いかと思った。
エリスは茫然とヘルムートを見つめ返した。
「だから、――」
ひどく言いづらそうに、恥ずかしそうに彼は俯いた。
空いているほうの片手で顔の半分を覆って、つい、と視線をそらす。
「好きなんだ。きみのことが。ずっと前から」
彼はすこし怒ったように言った。
その耳が赤く染まっているのに気づいて、エリスの頬も瞬時に赤く色づいた。
(でも)
「ヘルムートさま……には、……すきな、ひとが」
「……きみしか好きじゃないよ、僕は。好きになった女の子は、きみだけだ」
恥ずかしそうに続けられて。
きっとこれは嘘だとか、聞き間違いに違いないだとか――もういつものように疑心暗鬼なことをぐだぐだと考えることはできなかった。
素直に彼の言葉が胸に伝わってきて、信じることしかできなかった。
「……っ」
ほろりと零れ落ちた涙に、ヘルムートが慌てて顔を上げるのがわかったけれど、止めることはできなかった。
「ふ……ぇ……っ」
「エリス」
泣きじゃくり始めたエリスの頭を引き寄せて、ヘルムートはその額に口づけをおとした。
ささやくように続ける声が、心に染み渡っていく。
「僕は一度きみを手放そうとした。でも、できなかった。愚かだったんだ。自分の心がどれだけきみを必要としているのかわかってなかった」
エリスは手をのばした。
彼の首元に、しがみつくようにして泣いた。
「……覚えてる?エリス。きみが昔、僕に贈り物をくれたこと。絵の具と筆のお返しにって」
――覚えている。
それはほんのささやかなお返しだった。
幼かったから、いまとなっては容易にできない贈り物をしてしまったのだ。
「とても素敵な贈り物だった。でも、きみはそれ以上のものも、僕にくれた。知らなかっただろうけど……僕はきみが絵を描いているのを、後ろから眺めているのが好きだった。すごく集中していたはずの君が、時どき僕のほうを振り返って、微笑みかけてくれるのが嬉しかった。きみが微笑んでくれるたびに、僕の心は温かくなった。きみは僕に、そうやって幸せな時間をたくさんくれた。世界で一番の贈り物をしてくれた。――きみがまた、あんなふうに笑ってくれるように頑張るから。どうか僕と、この先もずっと一緒にいてほしい」
思いがけない告白に、胸が詰まった。
あのささやかな時間が、かけがえのない幸せなものだったと思っていたのは、自分だけだと思っていたから。
でも違ったのだ。彼もまた、そんな風に思ってくれていたのだ。
「……はい……っ」
小さな涙声で、けれどはっきりと返事をしたエリスを、ヘルムートはほっとしたように抱きしめた。覆いかぶさる彼の重さが、においが、温かさが、これは現実だと知らせてくれる。夢なんかじゃないのだと、たしかに教えてくれた。