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第十一章 天使の落下

 小さな小さな手が一生懸命に動いていた。
 ヘルムートは斜め後ろからその手の動きを眺めた。
 人が後ろに立っているのに、この手の持ち主はまるで気づかない。
 ときどき、ふと手を止めて顔を上げるけれど、後ろではなく前ばかり見ている。
 鈍い子だなぁと思いながら、ふと気づく。
(この子……きれいな瞳だな)
 わずかに見える横顔を見て、素直にそう思った。
 森の緑のように、美しい色の瞳をしていた。
 『神秘的』とかなんとか言われて騒ぎ立てられる自分の紫色の瞳より、よほど綺麗だ。陽の光に反射する夏の緑のように、きらきら輝いている。
 でも、その横顔はどこかさみしそうで、遠くを見つめる眼差しには憧憬が込められていた。
 ヘルムートはその視線の先を追い、なるほど、と相手の心を読み取った。
 少女と同じ年頃の子供たちが、楽しそうにはしゃいでいる。
 彼らが駆け回っている様子をこの小さな女の子は、一人ぽつんと離れたところから絵に描いているのだが、本当は一緒に遊びたいのに、そうできなくて時々うらやましそうに見つめているわけだ。
(仲間に混ぜてもらえばいいのに)
 優しい風にふわふわとなびく栗色の髪を見下ろしながら、そう思った。
 気位の高い自分はぜったいにそんなことは言わないけれど、普通の子供はそうして一緒に遊ぶはずだ。
 この女の子は、内向的な性格をしているのかもしれない。いかにも大人しそうな顔をしている。
 それに、ずいぶん色の白い子だった。あまり表に出たことがないみたいに――――そこまで観察して、ようやくヘルムートは気づいた。
(ああ……コレが)
 父親の友人だというティアーズ伯爵の、噂に聞く病弱な一人娘かと。
 ヘルムートはこの日、父親とその人の家を訪ねたのだが、対応に出た執事から『あいにくと皆さま、近所の子供たちを誘って、近くの丘でピクニック中です』と伝えられ、こちらのほうにまで足を伸ばしたのである。
 そうして父親は、娘を見守るようにすぐ傍にいる伯爵夫妻と共にお茶を楽しんでいる。ヘルムートがちらりと視線をやると、『あたりですよ』と夫人のほうが口の動きだけで言ってきた。わらわらと遊んでいる子供たちの中から、『どの子がうちの娘か当ててみてください』と言われていたのだ。
 しかし、当てたところでどうしろというのだ。
 適当に挨拶を済ませたら、さっさと家に帰りたいと思うが、父親や伯爵夫妻の態度から察するにどうもそれは無理そうだった。
(ようするに、親が友人同士だから子供たちにもそうなって欲しい、と)
 それならもっと早くに紹介されてもおかしくはなかったのだが、ヘルムートが王子の学友に選ばれたり父親自身が忙しかったりしたため、なかなかそうする機会がなく、これまで延期にされていたらしい。あとはこの少女が、身体が弱くて寝込んでいることが多いというのも理由の一つだったようだ。
 ヘルムートは内心でため息を吐いた。
 王子の学友になるのはまだいい。同い年だし、お互いに性格が良いとはいえないので、まぁまぁ気が合って退屈しないから。
 けれども、この女の子はダメだ。年下だということは父親から事前に聞いていたが(まったく興味がないので、いくつ下かは忘れてしまった)、それをのぞいても親しくなれそうにない。
 ふわふわして、気が弱そうな雰囲気で、本当は皆と一緒に遊びたいと思っているくせに遠慮して言えずにいるような、そんな繊細で内気な人間とは――――。
(泣かせる自信ならあるんだけどな)
 鬼のようなことを思った。
 ちょっとつついてやれば、おそらくこの手の子は簡単に泣く。王子の学友候補にも似たようなタイプの子がいたのでよくわかる。嫌味一つで大泣きされて、非常に面倒くさかった。
 この目の前の小さな、大事に大事に育てられた温室育ちの女の子なら、もっと泣くかもしれない。
 けれど、他人にびいびい泣かれてもヘルムートは痛くもかゆくもないが、一応この子は父親の友人の―――しかも友人の中でもかなり親しいという人の娘なので、いつもの調子でやったら、父親が友人を一人失うかもしれない。それは避けたい。王子と一緒に学友候補たちをいびり倒して以来、『天使の皮をかぶった悪魔っ子』と王宮の一部で囁かれて怯えられているヘルムートだって、人並みに父親を大事に思っている。
 優しく穏やかな父親から友人を奪うようなマネをしたら、一年ほど前に亡くなった母親は空の上からこう言うだろう。
『ヘルムート……かあさま恥ずかしい。あたしあんたをそんな子に育てた覚え……いや、うん、ひねくれさせたのはあたしのせいかもしれないし、とうさまをイジメてやるのは別にいいけど―――だってほら、あのムカつくくらい綺麗な顔がへにょん、てなると可愛いじゃない?―――でも友達なくすようなことはしちゃダメよ。かわいそうだもの。いやでもかわいそうな顔も捨てがたいな。背中が丸まってるの、きゅーんとするし。うーん』
 母親はとても変わった人だった。
 愉快な思考回路の持ち主でもあった。自分が死んで激しく落ち込んでいる夫の姿を、きっと空の上から寂しそうに、でも嬉しそうに眺めている気がする。そういう人だ。
 ヘルムートはもう一度、心の中でため息を吐いた。
 わかっている。
 今日、父親が自分を連れてきたもう一つの理由は。
(僕のためなんだろ、父さん)
 母親を亡くして、それなのに一度も泣かない自分を心配し、気分転換させようとでも思ったのだろう。自分だって、まだ立ち直っていないくせに。
 意味のないことだとヘルムートは思う。
 いつもと違うことをして気分を変えても、忘れることなどできない。できるわけがない。その喪失感を埋めるほどの存在が、この世にいるとは思えない。
 それでも、父親の気遣いを無駄にするのも悪いので、伯爵の娘に声だけはかけてみることにした。少し、その描いている絵にも興味があったから。
 これほど小さな子にしては上手な絵だし、目を引くものがある。
 ヘルムートは、みんなと遊ばないの、と訊いてみた。
 そうしたら、絵を描くほうが楽しいとその子は答えた。
 弱々しい小さな声をしているくせに、どう見ても羨ましそうな眼をしていたくせに、とんだ強がりを言うものだ。
 陽光に煌めく緑の瞳が自分を戸惑いがちに見上げてくる。
 それなりに可愛いらしい顔立ちをしているような気はするが、ちょっと痩せているので、大きな目ばかり目立つ。
 戸惑っているのがありありと分かるのに、その眼差しにはこちらに対する好奇心がのぞいていた。たいていの女の子は、そこに憧れとか好意を混ぜる。異性としてヘルムートを意識する。次いで、こちらの気を引くためにやっきになる。
 そうするとヘルムートはいつも相手に対する興味を失う。可愛らしい笑顔を浮かべられればいかにも媚びているようでうんざりするし、必死にふってくる話題はどれもくだらなくて、どんなに一緒にいてもその目が見ているのは自分の容姿ばかりで、相手の熱が上がるのとは逆にヘルムートは醒めていく。
 ところが、この子は違った。
 こちらに興味を持っているのは分かるけれど、なんだか、そう、見事な芸術品を眺めているような眼なのだ。とても綺麗で素敵だとは思っているようなのに、それを手に入れたいとは思っていない、そんな眼。ただじぃっと眺めてくるのには、顔には出さなかったが自分の方が戸惑った。
 ちょっと変わった子だというのは、すぐに分かった。
 でも、嫌な感じはしない。
 強がりを言う気持ちが理解できたから、余計にそう感じたのかもしれない。
 周りに心配をされたくない、だから平気な顔をして何でもないように振るまっている。
(僕より小さいくせに、僕と似たようなことをするんだな……)
 この子は、どういう子なのだろう。
 少し興味が出た。
 また今度、ゆっくり話す機会があってもいい気がした。
 それで、絵の具と筆をあげる約束をしてこの日は帰った。








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