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第十一章 天使の落下

 やっぱり簡単に泣いた。
 ヘルムートはたったいま自分が泣かせてしまった女の子を見下ろして、なんとも言えない気分になった。父親の友人の娘だから、いちおう気をつけていたのに。
 でも、自分は何も悪いことはしていない、と思う。
 ただ、約束の絵の具と筆をあげただけなのだから。
 自分にしては非常に珍しいことに、それは純粋な好意からだった。この女の子は幼いながらに絵が上手いから、絵の具を与えてみたら、もっと素晴らしいものを描けるのではないかと思って。
 それから、まぁ、ちょっと話をしてみたいと思っただけであって、別に苛めてやろうと思って二度も会ったわけではない。
 ないけれども、結果的にはそうなった。
 贈り物をしたら、きっと喜ぶと思っていたのに、その女の子は喜ぶどころか戸惑って、無理に持たせるようにして渡したら困ったような顔をして、自分が贈り物を与えられる理由が知りたいと言った。
 そんなこと訊かれるとは思っていなかったヘルムートは少し驚き、表面上は微笑み続けたまま、内心でムッとしていた。絵の具が欲しくないわけではないだろうに、持っていないと言っていたから興味くらいはあるだろうに、喜ばないなんて。
 可愛くない。小さな子供のくせに。素直じゃない。生意気だ。
 ヘルムートは、自分自身がまさしくそう言われる子供であることなど頭になかった。せっかくの好意を無駄にされて、ひとり腹を立てた。
 それでつい冷たい声で、意地の悪いことを言った。 
 でも、そうした一連の行動を思い返してみても、やっぱり自分は悪くないと思った。――――思ったけれど、泣きそうな顔でうつむいて、そのまま目の前でほろほろと涙を零し始めた小さな女の子を見下ろしていたら、それ以上は一言も責められなかった。
 変だった。
 王宮で会う他の子供たち相手には、何のためらいも容赦もなく徹底的に苛めて泣かせて家へ逃げ帰らせることができるのに。そうしたって良心のひとかけらも痛まないのに。
 なぜか今、この森のように綺麗な緑の瞳から溢れ出る涙の煌めきを見ていると落ち着かなくて、心がもやっと気持ち悪くなる。緩く波打つ栗色の髪が、うつむいた拍子に白い頬にかかっていて影を落としたのを見れば、すぐにも上向かせて、その涙が落ちないようにしたくなる。
 ヘルムートはそんな自分の感情に、納得のいく理由を求める。
 ――――きっと、たぶん、そう思うのは泣かれるのが煩わしいからだ。
 他の子供たちに対する感情と変わらない。
 泣かれるのはうっとうしい。
 目障りだ。
 そんな風にしか考えず、罪悪感など抱いたことはなかった。相手には、自分が心を痛めるほどの、思い煩うほどの価値などない。
 心はいつも冷え冷えとしていて、寒かった。
 自分はあれほど懐いていた母親が死んでも泣けない人間なのだから、人前でも平気で泣いていた父親のように情が深くないのだから、冷たい人間なのだから、身内ならまだしも赤の他人になど優しくできるわけがない。心を動かされるはずがない。
 ――――長い睫毛を伝って、ひと雫、ふた雫。
 透明なそれは絨毯に吸い込まれていく。
 止まることを知らないように。
 理屈っぽく頭の中で優しくしない理由を並べ立てていたヘルムートの手は、無意識のうちに栗色の頭をくしゃくしゃとかき混ぜていた。
 自分で自分の行いに驚いているうちに、女の子がそろそろと顔を上げる。
 大洪水を起こしている瞳が、揺らめき、陽の光に輝いた。
 そうなると、森の緑は翡翠のように美しく透き通って。
 真っすぐに見つめ返してくる瞳があまりにも純粋な輝きを放つので、ヘルムートは思わず息を呑んだ。彼女の頭から手を離しながら、ああやっぱり、なんて綺麗な瞳だろうと感動する。確か腹を立てていたはずなのに。
 そして、気がつけば、また無意識のうちに口が動いていた。
 贈り物をした理由。
 ただ、そうしたいと思っただけなのだと素直に答えていた。
 なんだか負けた気分になった。
 この子が泣き虫なのがいけないんだ、ちんまりとしていて、小動物のようなのがいけないんだ、おまけに身体が弱くて儚げな雰囲気をしているのもいけないんだ、とヘルムートは初めて抱いた名前も知らぬ感情を持て余しながら思った。
 他の子供たちのように苛め抜けないのは、泣かせても平気でいられないのは、この子が普通の健康な子供じゃないからであって、それ以外に特別な理由などない。
 頭を撫でたのだって、決して優しさや慈しみからではなく、単にそのまま泣かせておくとうっとうしくて面倒だからだ。 そのうちに女の子は泣き止んで、ちょっとびくびくと怯えた眼でヘルムートを見上げてきた。
 なんであれしきのことで怯えるんだ、ていうか今ちゃんと慰めてやっただろ、質問にも答えてやったじゃないか、とヘルムートは自分の方こそ彼女の次の反応にびくびくした。
 女の子がどう出るのか内心で構えながら、ヘルムートはどうしてだか自分が弱腰になっている理由を考えた。
 ――それは、この子がまた泣いたら、どうやってあやせばいいのか分からないからだ。父親の友人の娘を、これ以上泣かせてはいけないからだ。
 二人の子供は、お互いにお互いをびくびくしながら見つめた。








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