やがて、先に口を開いたのは女の子のほうだった。
『あの……えと……』
なんだよ、まだるっこしい喋り方だ、さっさと言えよ、とヘルムートは変に緊張しながら思った。
もはや自分に対して良い反応など返さないに違いないと、なぜだか重苦しい気持ちになりながら待っていると、女の子は意外な言葉を口にした。
『ごめんなさい……』
しょぼん、と栗色の頭が下を向く。
ヘルムートは言っている意味が分からなくて、一瞬頭が真っ白になった。
『……?なんできみが謝るの。謝るなら、ふつうは泣かせたほうだろう。……僕は謝らないけど』
ヘルムートがそう意地を張って宣言しても、女の子はやっぱり怒らなかった。
それどころか、こう言った。
『ヘルムートさまは、ぜんぜん悪くないよ……?わたしがいけないの。生意気だから……』
お前で生意気なら、たいていの人間は生意気だということになるだろうよ、とヘルムートはやや呆れながら思った。
――――さっきは確かに生意気だと思ったし、口に出して言ったけれど。
あやしているうちにそんな感情は消えていたし、どうやら本気で謝っているらしい下向き加減の栗色の頭を見下ろしていたら、もうそうは思わなかった。
女の子は続けた。
『せっかく優しくしてくれたのに……台なしにしてしまって、本当にごめんなさい』
優しくした覚えなんかない、とヘルムートはまたしても驚かされた。
自分はただしたいようにしただけであって、優しくしようなどとは微塵も考えていなかった。ただ勝手に贈り物をして、喜んでもらえなかったから気分を害して、むしろ苛めただけのような気がする。――――そう、認めたくはないが、自分が全面的に悪いのである。この子にはなんの落ち度もない。
それでもヘルムートはごめんなさいが言えなかった。
自分より小さな子が、悪くもないのに謝っているというのに、言葉は喉に張りついて出てこない。まだ心のどこかに、なんで自分が謝らなきゃならないんだという思いが残っていた。
ヘルムートは押し黙ったまま、そっぽを向いた。
彼女の言葉に何を返せばいいか分からなかった。
その反応に何を思ったのだろう、女の子は悲しそうな声で、また言った。
『ほんとうにごめんなさい……』
悪くもない彼女に謝られるたびに、ヘルムートの心に見えない棘が突き刺さる。それがまた泣き声に変わっていたので、なおさらチクリとして。
とんだ泣き虫だ、ああなんて面倒な子だろう、絶対に仲良くなんてなれない、父親たちはそれを望んでいるみたいだけれど無理だ、自分みたいな悪魔と、こんな、こんな――――天使みたいな清らかな子は、きっと永遠に仲良くなんてなれない。
仮にそうなれたとしても、どうせまた泣かせる。
泣かせて、それで、悪くもないこの子に謝らせて、そっぽを向いて。心には棘がたくさん突き刺さる。きっとその痛みで夜も眠れぬほど苦しむことになる。
今この時、もうこんなにも苦しいのだから。
『ヘルムート、悪いことをしたら、なんて言うの?』
いつか言われた、母親の言葉が頭の中に蘇えった。
『初めは“ご”で、最後が“い”よ。さあ言ってごらんなさい――さん、はいっ』
そんなに簡単に言えたら、苦労はしない。
ヘルムートはそう思いながら、自分の方が悪いと思って落ち込んで、また深くうつむいてしまった女の子を見つめる。どうしたら、その顔を上げさせることができるのだろう。このままではまた泣き出してしまうかもしれない。
ヘルムートの中に、いつもは存在する“放置する”という選択肢はなかった。
(僕が謝れば)
――――悪いのは、きみより年上なのに機嫌を損ねて当たった自分のほうだ、とそう言いさえすれば。
たぶん、仲直りできる気がする。
ケンカなんて、同い年の学友である王子としかしたことがない。しかも、どちらも謝ったことなどない。いつも自然に元通りになっているから。
だから、謝って仲直りなどという方法は初めてだった。
(ていうか、なんで僕は仲直りしたいと思っているんだろう)
女の子の両手には、まだ自分が押しつけた贈り物が握り締められている。
仲直りしたら。
自分が謝ったら。
この子は泣くのを止めて、その贈り物の絵の具と筆を使うだろうか。丘の上で見たような、さみしそうな顔もせず、楽しそうに微笑みながら。
(笑ったら、どんな風だろう)
その緑の瞳は、きっと、とてもきれいに輝くのだろう。
ヘルムートは口を開く。
それは自分にとって、この世で最も口にするのが難しい言葉だった。ものすごく小さな声で言った。ひょっとしたら、彼女よりも小さな声で。
きっと傍目には、とうてい謝っているようには見えない仏頂面をしていた。
そんなヘルムートに、女の子はなぜかまた謝った。
それでヘルムートも、僕のほうが悪いって言ってるだろ、と謝っているんだか怒っているんだか分からない口調で言った。
これどうやって収拾つけるんだ、と困っていると、女の子はしばらくじっと涙の浮かんだままの瞳でヘルムートを見上げた後、初めて微笑んだ。
それは気が抜けるような、ほにゃっ、とゆるい笑顔だった。
潤んで清らかに輝く瞳が、ヘルムートの紫色の瞳を真っすぐ射抜いて、ついでに心も貫いた。
『…………きみってさ、魔法でも使えるの』
『ううん、使えないよ……?』
じゃあどうして、冷たくて凍えるようだった自分の心は、今、一瞬にして春の陽射しに照らされているときのように、心地良い暖かさに満ちたのだろう。
不思議そうに見つめてくる女の子は、それからちょっとためらいがちに、ヘルムートがあげた贈り物を差し出してきた。
『要らないってこと?』
せっかく仲直りしたのに、また不機嫌になりかけたのだが、女の子は言った。
『わたし、あの、失礼な態度だったから、返したほうがいいかと……思って』
『……絵の具と筆、嬉しくなかった?』
そう訊くと、彼女は大きく頭を横に振った。
『すごくうれしかった』
『ホントに?』
半信半疑でまた訊くと、彼女はこくんと頷いた。
じっと自分の手の中にある絵の具と筆を見つめている。とても惜しいものを手放す人のように。
ヘルムートはなんだかおかしくなって、ふっと笑みをこぼした。この子の前で、初めて本当に笑った。
『持っておいき。だいたい、そんなの返してもらったって困るよ。僕、あんまり絵得意じゃないし』
きみのために買ったんだから。
そう言うと、女の子はまた笑った。
花開くような、可愛い笑顔だった。
謝ってよかった、とヘルムートは素直にそう思った。