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第十一章 天使の落下

 彼女はきゅっと贈り物の箱を抱きしめ、はにかみながら言う。
『ヘルムートさま、あのね、贈り物のお返しに、おまじないをしてもいい……?』
『おまじない?』
『お友だちに教わったの』
 別にお返しなんていらなかったし、魔法使いでもない人間にそんなものをしてもらっても効果など期待できないと思ったけれど、ヘルムートは頷いた。断ったら、またしょんぼりとしそうで。
 だから、言われるがままに軽くかがんで、目を閉じた。
 他の人間に同じことを言われたら絶対にしない無防備な体勢をとりながら、いったい何をする気だろうかと訝しく思う。
 そのとき、ふわりと花のように甘い香りがした。
 思わず瞼を上げるのと同時に、額にやわらかな感触があって、ヘルムートは目を見開いたまま固まった。
 彼女は身体を離しながら、小さな声でそっと告げた。
『お月さまの見守るあいだ、ヘルムートさまに素敵な贈り物がありますように』
『……なにそれ?』
 額だが、初めて女の子にキスされたと、びっくりしながら訊ねると、彼女はほのぼのと微笑んだ。
『とっても良くきくおまじない』
 いや、どういう効果があるのかを訊いたのだが。
 やっぱりちょっと変わった子だな、と思いながら、ヘルムートは自分自身の額に手で触れる。
 なんだか、ぽわんと温かいような気がした。
 でも、きっと気のせいだろう。
 


 その夜、ヘルムートは夢を見た。
 見晴らしの良い丘だった。かつて両親とピクニックに行った場所に似ていた。
『ヘルムート』
『かあさん……?』
 亡くなったはずの母親が、いつのまにか目の前にいた。
 彼女は唐突に言った。
『初めは“ご”で、最後が“い”よ。さあ言ってごらんなさい――さん、はいっ』
 なんでそんなことを言わなきゃいけないんだ、とヘルムートは口をへの字にして黙っていたが、母親はしつこかった。
 十二回同じことを言われて、ようやく、理由も分からぬまま、しぶしぶ口にした。
『ごめん……』
 そうしたら、母親は太陽のように明るく笑った。
『やればできるじゃないの!さすがはあたしの子ね!まぁ、“い”じゃなくて“ん”で終わっているのは良しとしましょう』
 これから先も自分が悪いときにはちゃんと謝るのよ、と母親は言った。
『さもなければ、好きな女の子に嫌われちゃうわよ』
『いないから別にいい』
『これからできるわよ。ていうか自覚ないだけで、もう好きな子いるんじゃない?』
『いないし、これからもそんな相手なんかできない』
『なんで断言』
『だって女なんて、うるさいし、すぐ泣くし、うっとうしいだけだし』
『嘆かわしいわね、ヘルムート。モテるからって調子に乗って』
『モテるのは僕のせいじゃない。とうさんのせいだ』
 暗に父親の美貌を受け継いだせいだと言うと、母親はむっと唸った。
『そんなことないわよ、ヘルムート。かあさまのせいでもあるでしょ。ほらこの目のぱっちり具合とか、耳の形とか。あっ、爪の形も』
『……うん、まぁ、そうだね』
 あいかわらず子供みたいなことを言う人だと思うヘルムートの頬を、母親は手のひらでやさしく撫でながら言った。
『あたしたちの子なんだから、きっと素敵に成長するのよ』
 ヘルムートは、ああこれは夢なのだと唐突に理解する。
 そんな遺言じみた台詞、現実では一度も言われたことがない。
 母親は何の言葉も残さず死んだ。
 馬車に轢かれそうになった、よその家の子供なんかを助けて。
 母親の手が離れていく。
 掴みたい、呼び戻したい。
『かあさん、とうさんがずっと泣き止まないんだ。だから、帰ってきて』
 手を伸ばした。
 でも、母親の姿はどんどん遠ざかっていく。
 彼女は言った。
『ヘルムート、“かあさん”じゃなくて“かあさま”って言いなさい。そのほうが可愛いでしょ』
 ものすごくどうでもいいコダワリだった。そんなの今言うことじゃないだろ、とヘルムートは思わず心の中で突っ込む。
『かあさ……』
『とうさまをヨロシクね。しょげてる姿もきゅーんとするけど、あんまり落ち込んでばかりの姿を見るのは飽きてきちゃった。だから元気出すのよ、って伝えてね。あと、あなたもよ、ヘルムート。さみしいからって、よその子いじめて遊ぶのもたいがいになさい。それから、好きな子にはめいっぱい優しくするのよ』
 だからそんなのいないって言っているのに。
というか、まるで、死んだ後もずっと自分たちを見てきたかのような言い方をする……。
 そこで、ヘルムートは目覚めた。
「…………ヘンな夢」
 ぼんやり天井を見つめながら呟く。
 夢の中で母親に触れられた頬を、自分の手のひらでゆっくりと辿ってみた。
 それから、ベッドの上に横になったまま、ヘルムートは重いカーテンの隙間に視線を移した。ちょうど朝日が一筋、差し込むところだった。
 なんて眩しいのだろう。
 眩しすぎて、目に沁みる。
 涙があふれたのは、きっとそのせいだ。
 小鳥の鳴き声を聞きながら、ヘルムートは夢を辿る。
 今日は良い天気になりそうだ。
 どこか遠くに出かけてみようか。
(とうさんも誘って)
 場所はそう、前に両親とピクニックに出かけた丘がいい。
 それから、少し遠回りして、あの子の家に寄ってみよう。
 小さな女の子。
 小さな画家。
 とても素敵な贈り物をくれた――――エリスのところへ。 



 心の中に、ひとつ、ふたつ、温かな光が落ちてくる。
 自分よりも小さな背丈の、緑の瞳を持つ女の子が笑うたび、それは月日を追うごとに積もっていって、ヘルムートの胸を温かく満たした。

   * * *








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