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第二章 エリスの天使

 姿だけならあの夜会で見ることができたが、近づくことなどできず、その声までは聞けなかったから。
(会いたい……)
 たとえヘルムートが他の女性たちのものでも。今だけでもいいから、自分の元へ来て欲しい。
 また一緒に絵を眺めたりお茶を飲んだりして、穏やかで温かな時間を過ごしたかった。
 それが、自分にとって何にも変えがたい幸せな時間だったことを、エリスは初めて自覚した。
 きっとこの先も、一番幸せな記憶として思い出すだろう。
 ヘルムートが誰のものであっても、自分が誰と結婚しても。あの絵を前にして彼と過ごした日々は、心の中に残り続ける。
 そう、たぶん何事もなければ、エリスはあの青年と結婚することになる。この話は白紙にはならないし、できないのだ。
 両親はこの話が来たときすごく喜んでいて、エリスは一度も嫌だとは言えなかった。そんなことを言えるわけもなかった。
 年頃になってもまともな縁談が一つも来ない娘のことを、両親はひどく心配していた。なにしろ、跡継ぎなど産めそうもない身体をしたエリスを、わざわざ貰い受けてくれる奇特な相手など、そうそういるわけがなかったから。
 だからこそ、その縁談が来たことで両親はひどく安心したようだった。
 子供の頃から心配をかけることしかしていないエリスにとって、両親にできる唯一の親孝行が、まともな結婚をすることだったのだ。
 だから、この先エリスはあの青年と結婚して、筆ではなく針を持ち、ヘルムートとは二度と絵の前でおしゃべりすることもできなくなる。それに、頭を撫でて貰うこともないし、たぶん今までのように気兼ねなく会うことすらできなくなるだろう。
 筆を持てなくなるなんて考えられなかったが、両親の望む通りに結婚するためには我慢するしかない。
 けれど、とエリスは想像した。
 もし結婚する人が、幼い日、絵の具と筆をくれたヘルムートならば、きっと筆を針に持ち替えろなどとは言わないだろう。
 ヘルムートならば―――――。
 そこまで思って、エリスは自分で驚いた。
(……わたしが、ヘルムートさまと結婚したら?)
 そんなことありえるはずがない。
 ヘルムートは自分のことなど、おそらく子供の頃からの知人くらいにしか思っていないのに。
 それに、釣り合うはずがないではないか。家格はともかく、あの人の隣に相応しいのは自分とは違う、普通に健康的で、教養も気品も兼ね備えた大人の女性なのだから。
 エリスは突拍子もないことを思った自分が恥ずかしかった。
 しかし、どうしてそんなことを思ってしまったのだろう。
 エリスはぎゅっと胸の辺りを掴んだ。いつしかその胸は、ヘルムートのことを思うと灯が宿ったように温かで、それでいて切なく疼いた。
 なにかの病気かも、とエリスはベッドの中で縮こまった。無性にヘルムートの顔が見たくて、彼の声を聞いたらわけもなく安心できそうな気がして、でも会ってどうすればいいのか分からなくて不安だった。
 しかし結局じっとしていられずに、とうとうエリスは起き上がった。
 彼が来ないのならば、自分が会いに行けばいい。そう思ってベッドから降りて、――――けれど、すぐに動きを止めた。
 ヘルムートに会ったら、何かが変わるだろうか。
 いや、変わらないだろう。それにこの状況は、変えることなどできないのだ。 
 エリスは肩を落とした。
 ――――ヘルムートがこの結婚を知ったら、なんと思うだろうか。
 そう思い、エリスは涙を飲み込みながら小さく笑った。
 きっと彼は言うのだろう。
『泣くほど嫌なのに結婚するの?―――馬鹿だね』と。
 結局エリスは、自分から会いには行かなかった。ただその代わり、やはり会いたくて仕方なかったので、願うに留めた。どんな女性よりも一番強く願った。
 ヘルムートに会いたいと。
 エリスは涙も拭わず、ただそのことだけを願った。
 

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