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第十一章 天使の落下

「―――……奥さま、おはようございます」
「ん……」
 穏やかな呼びかけによって、エリスは目を覚ました。
 ベッドの上にのろのろ起き上がると、侍女たちがカーテンを開けたり、エリスの洗顔の準備をしていた。
「お体の調子はいかがですか?」
「だいじょうぶ……、おはよう……えっと」
 エリスはその侍女の名前を言おうとして、口ごもった。
 一年以上ここで暮らして、さんざん面倒を見てもらっておきながら、初対面のときに確かに教えられていたはずの名前を、今さらもう一度教えてとは言いづらい。
 知らず困り顔になっていたエリスに、相手はちょっと考えてから言った。
「もしかして、私の名前を言おうとなさってます?」
「あ……」
 エリスはこくこくと頷いた。
 自分がとても失礼なことをしている自覚を持ちながら。
「あの、実は、わたし……みんなの名前を……」
「フィオです。あっちはサシャ、で、向こうでテキパキ動いてるのが、新しく奥さま付きになったレティーです。あと、一番ちびっこいのがいたでしょう?ニナっていうんですが、結婚が決まったので今月で辞めることになりました。レティーはその代わりです」
「そうなんだ……、ありがとう……ふぃ、フィオ」
 恐縮しながら教えてくれたお礼を言うと、彼女は顔をしかめながら言った。
「びっくりです。まさか名前を覚えて頂けてなかったなんて。まぁ薄々気づいてましたけど」
「ご、ごめんなさい……」
 深く反省して、しょんぼりと謝ってうつむいたエリスは気づかなかったが、フィオはそのやりとりを聞いていた他の二人に向かって、にやぁと嬉しそうに笑いかけた。
「えー!いいなー!奥さま、私も」
「えっ?」
 突然そう言われ、エリスはびっくりして顔を上げる。
 着替えを用意していた侍女が、とても期待した目でこちらを見ていた。
「さ、サシャ……?」
「わーい」
 わ、わーい?
 エリスはてっきり呆れられるなり、気分を害されるなりすると思っていたので、喜ばれて驚いた。見上げれば、傍に立っているフィオもいつの間にかニコニコしている。
「ほらほら、あそこで櫛と鏡を用意している仏頂面にも呼びかけてあげて下さいな」
「誰が仏頂面よ」
 そう言って、鏡台の前にいた黒髪の侍女が振り返った。
 冷静な眼差しに、落ち着いた雰囲気。
 彼女の名前は、聞く前から知っていた。
「レティー」
「なんでしょう」
「え、あ、なんでもないんだけど……えと」
「では、お顔を洗って着替えをなさって下さい。お髪(ぐし)を結えません」
「あ、はい」
 なぜか主であるエリスのほうが命じられて、素直に返事をする。
 レティーはにこりともしない。
 自分は彼女に気に入られていないのかもしれないと、エリスはやや気落ちしながら思った。
 けれど、フィオが言った。
「気にしないで下さいね、レティーは基本がああですから。旦那さまにもあの調子なんですよ。はっきりした物言いは彼女の癖です。いちいち傷ついていたら、胃痛で倒れちゃいますよ」
「う、うん……」
「旦那さまも今回のことでグサッとやられてますし。すごい見ものでしたね、あのお顔は」
「え?」
「フィオ、手を動かしてくれる」
 レティーがそう注意して、眉をひそめた。
「はいはい。――さ、お顔を」
 何を言いかけたのかは気になったけれど、ひとまずエリスはベッドのふちに腰かけて、テーブルに用意された洗面器のお湯で顔を洗った。
 フィオにふかふかの布を手渡される。
 彼女は、こっそり教えてくれた。
「レティーが言ったんです。奥さまがお倒れになって、眠っていらしたときに。『あんなひ弱な奥さまを泣かせて雨の中追い出すなんて、旦那さまはアホなんですか』って」
 そしたら、旦那さまは今にも頭をどこかに打ちつけて死んでしまいたいと思っているような人の顔になって、なんだか見ていてちょっと可哀相になってしまいました――と。
 それから、髪を梳かしてもらいながら、レティーからはこんなことを言われた。
「本来、私から申し上げることではありませんし、余計なことを言うのもするのも嫌いなんですが、一つだけ。――あの方がしょんぼり落ち込んでおられると、非常に気持ちが悪く不気味で調子が狂うので、面倒くさいでしょうが、どうか仲良くして差し上げてくださいませ。性格の悪いヒヨコに懐かれたとでも思えば、あんなんでも時々ちょっと可愛いげがあるような錯覚に陥って、なんとかやっていけるはずです」
 いったいレティーは彼のことをどのように見ているのだろうかと、ヘルムートに対する認識がおおかたの人間とかなり異なるエリスは不思議になった。
「さて、それで――」
 レティーが綺麗にエリスの髪を結い終わったとき、サシャが鏡越しに微笑んで言った。
「朝食は旦那さまとご一緒でよろしいですか?」
 鏡に映った娘は、相変わらず健康的とはお世辞にも言えない容姿だったけれど、綺麗に結わえられた髪や明るい色のドレス、それに頬が紅潮していることで少しはマシに見えた。
 彼女はどきどきする心臓を片手で押さえながら、口を開いた。
「い、一緒にいただきます」
 よし、言えた。
 エリスは、はふ、と息を吐いた。








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