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第十一章 天使の落下

 晴天だった。
 朝日が燦燦と降り注ぐ廊下を歩き、エリスは食堂へ着いた。
 そこにはすでにヘルムートがいて、以前のように奥の席に座っていた。
「おはよう、エリス」
 やわらかく微笑む彼は、やはり天使さまのように綺麗で。
 エリスは一瞬みとれ、それから少し慌てて「おはようございます」とあいさつを返した。そんな様子に、ヘルムートがくすりと笑う。とてもやさしい表情だった。
「体調は?」
「あ……大丈夫です」
 結局きのうは、冷たい外気に晒されたのがよくなかったのか、ヘルムートと話をした後で微熱を出してしまったのだ。
 けれど、今朝はもう身体もだるくないし、気分もすっきりとしている。
 おかしなところがあるとすれば、それはいつもよりドキドキとしている心臓くらいなものだろう。
 エリスは少しだけ緊張していた。
(きのうのことが、全部夢だったらどうしよう)
 いま、このときがあまりに穏やかだから。雨の日に起きたつらい出来事が全部なかったことのように幸せだから。
「座って」
「は、はい……」
 エリスは以前のように、六人がけテーブルの一番端にちょこんと座った。
 奥に座るヘルムートとは一番離れた席だ。
「……前から言いたかったんだけど」
「え……?」
「僕の傍はいや?」
「えっ」
 エリスはすぐさま首を横に振った。
 いやなわけない。
 ただ以前は、図々しく傍に近寄っては彼の気分を害してしまうかもしれないと思っていたから。近づくのが怖くて、今よりもっと緊張していて、それで離れた席を選んでいたのだ。決していやだったわけではなくて、それどころか一番近くの席に行きたかった。ずっと。
「じゃあ、こっちにおいで。そこは扉の傍だから寒いだろう?」
 暖炉の炎はあかあかと燃えていて、扉も閉じられているから寒くはないけれど。
 エリスはおずおずと立ち上がり、ヘルムートの方へと向かった。
 すると、彼自ら向かいの席の椅子を引いてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「ん」
 そうして二人が着席して間もなく、焼きたてのパンやスープ、フルーツなどが次々に運ばれてきた。
 しばらくは互いに言葉を発さず、ただ黙々と朝食を食べた。
 エリスはパンをちぎりながら、彼にかける言葉を探す。
(なにか、気の利いた話でもできたらいいのに……)
 せっかく仲直りできた翌日なのに、以前のように沈黙ばかりが流れる食卓なんていやなのに、へんに緊張していて何を話せばいいのかわからなかった。
 子供の頃のようにとりとめもなく、でも楽しく会話できたら――。
「あ、あの」
「ん?」
 勇気を出して話しかけたはいいものの、次の言葉が出てこない。
 部屋の隅で控えている使用人たちから「奥さまがんばって!」という励ましの気配がひしひしと伝わってきたが、エリスはそれ以上なにも言えず、ただしょんぼりとうつむいた。
 これでは以前と何も変わらない。
「な、なんでも……」
「あとで散歩でもしようか」
「――えっ?」
 エリスが落ち込んだ声で言うのにかぶせるように、ヘルムートはそう提案した。
 顔を上げてみると、彼は愛しいものをみるような顔でこちらを見ていた。
 その瞬間、昨日はじめて「好きだ」と言われたことがまざまざと蘇って、エリスの頬は朱色に染まる。
 まだ夢を見ている心地がしていた。
 だって、彼には他に好きな人がいるのだと思っていた。
 自分なんて女の子として意識されてないと。
 でもそうじゃなかった。
 ちゃんと異性として、大切に想ってくれていた。
「エリス?」
「あ……」
 ぼうっとしていたエリスは、散歩の誘いにすぐにも頷きそうになって、ふと気づいた。
「ヘルムートさま、でも、お仕事は……」
「ああ……午後からね。ずっと忙しかったけど、ひと段落着いたし、これからはもっときみといられるから。今日も夕食までには戻ってくるよ」
 ヘルムートのその言葉に、エリスはうれしくなった。
 今までの彼は、昼近くに王宮に出仕して、それが終わったら――。
(……女の人のところ、に)
 そう、どこかの女性のもとに行って、翌日の朝にならないと帰ってこなくて。
 ずっと好きだったと言われたけれど、浮気されていた事実だけは変わらないのだ。
(でも、それはわたしが悪かったから……)
 彼はなにも悪くない。
 今までの自分は、浮気されてしまっても仕方のない妻だったから。ひどい態度をとり続けて、彼が触れることさえ嫌がっていたのだから。
 エリスはそうやって一瞬で広がった胸の中のもやもやを、無理やり押し込めた。
「お散歩、たのしみです」
「うん」
 ヘルムートが微笑んでくれた。
 いまはもう、それだけでいいのだ。
 結婚式でのことだって――。
 いまさら、気にしてはいけない。








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