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第十一章 天使の落下

 エリスは茫然としたまま、仕事に向かったヘルムートと別れ、部屋に戻るなりベッドの上によろよろとくずれ落ちた。
 そこへ、「どうしたの」と女の子の声がした。
 ジーナだ。
「呼びかけたんだけど返事がないから入ってきちゃったよ。いい?」
 すでにベッドの端に腰かけながら、彼女は訊いてきた。エリスはこくんと頷きながら、ゆっくりと起き上がった。
「あの、椅子のほうに……」
「ここでいいよ。散歩して疲れたでしょ、横になってなよ」
 言葉と共に、エリスはそっと肩を押されてベッドに倒れこんだ。いいこ、いいこ、と頭を撫でられる。
 同い年くらいなのに、コレットと同じように、彼女は自分よりずっと大人びて見える。いや、自分の容姿や態度、性格が年の割に幼いだけなのかもしれない。 
 エリスは気落ちしたまま思う。こんなだから、彼も「好き」という言葉を真に受けてくれなかったのだろうか。
「どうしたら、好きってちゃんと伝わるのかな……」
 独り言のように呟くと、ジーナがなんてことはないように言った。
「言葉で伝わらないんだったら、手っ取り早く行動で示してみれば?」
「行動……?」
「そう、ちゅーでもしてみればいい」
「ちゅー……」
 思わず繰り返してから、エリスの頬に一気に朱が上る。
「そ、そんなこと」
「でもちゅーくらいじゃ駄目かな。夫婦だもんね。それ以上のこともしてる仲で今さら
……」
 ジーナは途中まで笑いながら言っていたが、ふとエリスが真っ赤になって俯いているのを見て言葉を止めた。
「……えーと、そっか、うん。まだなんだ?」
 情けないやら恥ずかしいやらで、エリスは小さく頷いた。
「でもキスくらいは――え?それもまだ?……すごいねあのひと鋼の理性か。見直した」
 ジーナはちょっと感心したように言って、ころんと自分もエリスの隣に寝転んだ。
 間近で視線が交わった。
「行動で示すのが恥ずかしいなら、やっぱり言葉だね。だったら――なんどでも言えばいいよ」
「え?」
 ジーナは穏やかな声音で微笑んだ。
「好きだって、ちゃんと伝わるまで何度でも言ってみたら?――めげないことが肝心だね。わたしの友達にもいるんだ、そういうひと。毎日毎日、何年でもあきもせずに『好きだ』って、相手がどんなにつれなくても真に受けなくても、気にしていないみたいに微笑みながら言うの。馬鹿みたいだししつこいし、相手はすごく呆れてたんだけど……」
 そこで彼女は視線を天井に向けて、呟いた。
「今では好きだって言われることを自然に受け入れてる自分がいてさ、このひとはどんだけ自分のこと好きなんだっていう呆れの中に、ちょっと嬉しいなんて思ってる自分もいたりして……ああ、やっかいで困る」
「……え?」
 その言い方は、まるで自分のことのようだった。
「あー、ううん、最後のはなんでもない。気にしないで」
 隣から、苦笑がもれた。
 エリスは不思議に思いながら質問しようとしたけれど、それより先にジーナがまた顔をこちらに向けて悪戯っぽく言った。
「まぁおすすめはちゅーのほうだけどね。あなたの場合はそのほうが手っ取り早くて効果抜群だと思うよ」
「む、むりです……」
 いや、したくないわけではないけれど。
 むしろ、してみたいと思う乙女心もあるけれど。
 手を繋ぐだけでもどきどきして、緊張しているのに、いきなりそんなことできるはずもない。
「そうだ。なんなら今から行って気持ちを伝えたら?善は急げ、って言うでしょ」
「行くって……」
「王宮。わたしも仕事たまってるから、いつまでも逃げ回ってるわけにも行かないんだよね。そろそろ戻らなきゃ。だから、ついでに道案内してあげる。行ったことないんでしょ?」
「えっと、はい。でも、あのわたし……」
 今から王宮に行って、また彼に愛を告げることが、はたしてできるだろうか。心の準備がまるでできていない。一度言えたからと言って、そう何度もすらすら言えるものでもなくて。
「あ、そうだ。王宮に行ったらさ、リカルド……第一王子に苦情言っときなよ」
 唐突に言われても、エリスには何のことかわからなかった。
 ジーナは気にせずに続けた。
「あなたの旦那さん、ずっと忙しかったでしょ?それほとんど、アレのせいだから。朝帰りばっかりで、奥さんさみしかったでしょ?」
「…………ヘルムートさま、朝まで、王宮にいたんですか?」
「いたねぇ、ずっと徹夜で仕事してたよ。だからいっそ王宮に部屋とって、しばらく暮らせってリカルドは言ったんだけどね。断ってた。そのほうが楽なのに、よほどあなたの顔見に帰りたかったんだろうね。すごく気にしてたもん、一緒の時間がとれないこと。寝顔とあなたの描いた絵を見るしかできない、ってぼやいてたこともあったな」 
「――……」
「だからねぇ、世間の噂そのままにしてるけどさ。本当は浮気なんてしてる暇なかったと思うよ」
 はっきりと断言されて、エリスはもうこらえ切れなかった。
 なんだか泣いてばかりだ。
 胸が切なく痛んだ。
「豊穣祭のときの騒ぎも聞いてるよ、なんか浮気相手っぽい女が出てきたんだって?それはさ、あれだね、あなたと結婚する前の話じゃないかな。結婚してからは多忙でそれどころじゃなかったわけだから。――むかし女遊びしてた時期の、相手の一人だと思う。リカルドともどもそういう時期があったんだよね。だから、完全に白ってわけじゃないけど、あのひと少なくとも結婚してからはあなたに誠実だよ。むかしのことはさ、大目に見てあげなよ」
「はい……」
「よしよし、いいこいいこ。泣かないの。――これで少しは胸のつかえがなくなったかな」
 なんでも見透かす榛色の瞳で、ジーナはエリスを見て笑った。
 エリスも泣きながら微笑んだ。
 自分が何を信じればいいのか、今はもう、ちゃんとわかっていた。








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