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第十一章 天使の落下

「…………」
「…………」
 残された初対面のふたりはしばし呆気にとられていたが、先にマリエと呼ばれた女性のほうが口を開いた。
「ヘルムート様とおっしゃいますと、もしやあのラングレー公爵家の……?」
「あ、はい……」
 こくりと頷くと、女性はまじまじとエリスを見て、「なんとまぁ」と呟いた。「あの悪童の奥様が、このようなかわいらしい方だなんて……」
 そのむかし、王子と共に学友候補の子供たちをいびり倒していたヘルムートを知る彼女は、一瞬遠い目をした。
「あの……」
「ああ、申し訳ございません。ご案内いたしますわ」
 いったいヘルムートは王宮でどういう認識をされているのだろうか、とエリスはちょっぴり気になった。
 長い長い廊下を歩き、角を曲がったところで女性は足を止めた。目の前の扉を軽くノックする。
 エリスはどきどきとする胸を押さえた。急に来たりして、怒られはしないだろうか。そんな心配が頭をかすめた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
 中からの声は、彼のものではない男の人の声だった。
 マリエが両開きの扉の片方を開けてくれたので、エリスはおずおずと中に足を踏み入れる。
 重厚なつくりの部屋の中には、立派な執務机が置かれていたが、そこにいるはずの人はいなかった。かわりに、手前の机で書類をめくっていた男性が顔を上げて、こちらを不思議そうに見た。
「ええと、失礼ですがどちらのご令嬢でしょうか」
「あの、わたし、エリスと申します。えっと」
「公爵様の奥方様です」
 うまく自己紹介できないでいるエリスに、部屋の壁際にひかえたマリエが助け船を出してくれた。
 エリスとそう年の変わらない雰囲気の男性は、「公爵様の……?」と繰り返した後、首を傾げる。
「どの公爵様で?」
「あなたの上司の、奥方様です」
 マリエが言い直すと、男性は一瞬黙り込み、次に叫び声を上げた。
「ええーっ!!うそでしょそんな!ヘルムート様の奥方様って言ったら、もっとこう気位が高い感じのきつい美人では!?」
 それとは真反対のエリスは、がーん、とショックを受けた。
 マリエがひとつ咳払いをして、男性を諌める。
「それはあなたの想像上の奥方様でしょう。失礼ですよ」
「ああ、いやごめんなさい。でもだって、――驚いたな。こんな可憐な方だとは思ってもみなくて……」
 お世辞でも気恥しかった。
 エリスは頬を染めてうつむいた。
「で、えーと、ヘルムート様ですよね。いまは大広間のほうにいらっしゃるはずです。もうじき婚約式が始まるので。――奥方様がいらっしゃっていることをお伝えしにまいりますので、ここでしばらくお待ちください」
「あ、ありがとうございます」
 部屋の中央に置かれた長椅子をすすめられ、エリスはぺこりと頭を下げた。
「わぁ、そんな、頭なんてさげないで下さい!ヘルムート様に後で怒られます」
 そう言って男性が部屋を出ていくと、マリエも「わたくしもこれで」と言った。
「マリエさん、ありがとうございました」
「いえ、なにかありましたら、そこの呼び鈴を鳴らしてくださいませね。人がまいりますので」
「はい」
 にこりと笑ってマリエは出て行った。
 広い部屋に残されたエリスは、長椅子に腰かけるときょろきょろと周りを見回した。
(ヘルムートさま、ここでいつもお仕事されてるんだ……)
 執務机の上にはたくさんの書類が乗っていて、いかにも忙しそうだった。
 朝まで仕事をしていたことを、自分はまったく知らなくて。
 人の言葉に惑わされて、彼が浮気していると愚かに思い込んでいた。
(ごめんなさい、ヘルムートさま……)
 エリスはしょんぼりと俯いた。
 それからしばらく経った頃だった。
 ふいに扉がノックされ、返事をする間もなく一人の男が中に入って来た。
「やあ、エリスどの。これはお懐かしい」
「え……?」
 エリスはびっくりして、そのひとを見上げた。
 ヘルムートほどではないが整った顔立ちに、自信に満ちた表情を浮かべている。穏やかに微笑まれ、エリスははっとした。
「あの、……お久しぶりです……」
「思い出していただけてよかった。忘れられていたらどうしようかと思いました」








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