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第十二章 天使の落下

 気がついたら、それはふよふよと宙を漂っていた。
 自分がなんなのかもわからず、ただふよふよと。
 行くあてもなく漂っていたある晩のこと、大きな屋敷の窓辺に、絵が飾ってあるのを見つけた。なぜだろうか、無性に惹かれた。吸い寄せられるように窓を通り抜けて、その絵に近づいてみた。
 すると、その絵はほんのり光っていた。まぬけな顔をした、うさぎの絵だった。
 気がつけば、ふよふよは光に包まれていた。あたたかな光だった。
 そしてまた気がついたときには、ふよふよは絵の中から抜け出していた。
 手があって、足もできていた。
 自分の顔をぺたぺた触ってみると、やわらかかった。
 鏡台があったので、そちらに向かった。慣れない歩行のせいでふらふらとしたが、なんとかたどりついて鏡を覗き込むと。
 薄いピンクのうさぎのぬいぐるみが、こちらを凝視していた。
 つまり、ぬいぐるみとなった自分が自分を見ていた。
 うさぎは驚きながらあたりを見回して、ふと部屋の中に自分と同じ形を持つものを見つけた。白いうさぎのぬいぐるみだった。
 その隣に、ちょこんと座ってみた。
 同じ形の仲間だから、そうしていると寂しくない気がして。
 そのままじっとしていたら、朝がきた。
 ベッドの上で、なにかが動いた。
 うさぎが黙って身じろぎもせずに眺めていると、小さな女の子が起き上がった。
 次の瞬間、女の子の緑の瞳と目が合った。
『わぁ……』
 女の子はいそいだ様子でベッドから降り、こちらにやって来た。ぎゅっと抱きしめられる。うさぎはびっくりした。
『かわいい……!ピンクと白のうさぎさんだ!』
 女の子は、白い方ともども、ピンクのうさぎのぬいぐるみも両親からの贈り物だと思ったようだった。
『白いあなたがルビィで、ピンクのあなたがニコだよ』
 こうしてニコはニコになった。
 そののち、レスターがニコとルビィに魔法をかけた。
(まざっちゃうな)
 ふたつの魔力が、まざっていくのを感じた。
 ひとつはレスターのもの。
 もうひとつは、エリスのものだ。
 おしゃべりできなかったニコの『命』が、急激に強まった。
 かけられた魔法は、通信魔法だった。そのエリスとレスターの通話によって、ニコはしだいに言葉を覚えていった。
 ある日、思い切ってレスターに話しかけてみたら、すごく驚かれた。ニコは思い出すたびに、珍しいレスターのびっくり顔に笑う。
 エリスの絵の“おかしさ”に初めに気が付いたのは、レスターの祖父だった。孫のもらってきたエリスの絵を見て、なんだか変だと。
 ニコは自分の正体を、そのときにはもうわかっていた。
『おれは、もとは人間の赤ん坊の魂なんだ』
 レスターとその祖父に語った。
 気がついたら形もなく、ふよふよと宙をさまよっていたこと、エリスの絵からこぼれ出る魔力に吸い込まれ、形を与えられたことを。
 ふたりは唸っていた。エリスは魔力が少ないし、絵にしか力を発揮していないので、見た目には気づきにくかったそうだ。
『生き物の形をしたものには力が宿りやすいというが……ニコを動かしているのは、おひいさまの命の欠片だね』
 レスターの祖父はどうしたものかと思案した後、レスターに言った。
『命の欠片を元に戻すことはできるが、動かしているのはこれほど小さなぬいぐるみの身体で、しかも男の子の魂まで混ざっている。本当にちいさな欠片だし、もう混ざり込んでしまっているので困難な返しを行うより、このまま様子をみるほうがいいかもしれないね』
 彼はニコの頭をやさしく撫でてくれた。
『ただ……、おひいさまの命が危険になったそのときは……ニコのなかで絡まった魂と命の欠片をほどき、元に戻さねばなるまい。ニコ、了承してくれるかね……?』
 ニコは頷いた。
 身体を失うのは残念だったけれど、自分を『つくって』くれたエリスのためなら、否やはなかった。


 『中身』が空になったうさぎのぬいぐるみを、レスターは掴みあげた。
 床に置かれた絵に視線をやる。
 エリスがむかし描いた、ヘルムートの子供時代の絵だ。
 さきほどニコは、光になってその絵の中に入って行った。そこを通れば、作者であるエリスのもとへすぐに行けるのだと言って。
「…………」
 本来は、エリスが危険だというならば自分が行くべきだろう。
 かつて祖父は言った。
 自分はあの娘の剣と盾なのだと。
 だが、その役目はもう終わった。
 ニコも行く必要などなかったのだ。
 今はもう、その役目は別の人間のものなのだから。








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