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第十二章 天使の落下

 * * *

「ヘルムート、さま……?」
「ヘルムート……?あの忌々しい男と同じ名前とは。どこから入り込んだ?」
 男はエリスの上に跨ったまま、少年を睨みつけた。
「どこでもいいだろ、それよりエリスの上からどけよ。いやがってるだろう」
「黙れ。餓鬼は引っ込んでいろ。すぐさま出て行かないと酷い目に合わせるぞ」
 男はエリスの上からどくと、大股で少年に近づき、その胸倉を掴みあげた。
「ああ、胸糞の悪い。顔まであの男にそっくりだ。きさまは親戚か?」
「ちがうけど、手をはなせよ」
 男はふん、と言うなり、少年を床に放り投げた。
「らんぼうだなぁ」
 そのどこかのんびりとした口調。
「エリス、だいじょうぶか?」
 心配そうな表情に、エリスはうさぎのぬいぐるみを思い出した。
「ニコ……?」
 少年は微笑んだ。
「よくわかったな、いまはちょっとこの姿を借りてるんだ」
「ニコ……っ」
 エリスは起き上がって、少年ヘルムートの姿をしたニコの傍に駆け寄ろうとした――けれど。
「あっ……」
「あなたはそこで大人しくしていなさい」
 男にぎゅっと手首を掴まれて、エリスはまた長椅子の上に戻された。
「先に聞き分けのない子供に罰を与えねば」
「悪いことしてるのはお前のほうだ」
 ニコはしかめ面で言い。
 両者が睨み合っているときだった。
「――人の部屋で何をしてるんだ?」
 冷え冷えとした声音が、部屋の入り口から聞こえてきて。
 エリスの目から涙が零れ落ちた。
「ヘルムートさまぁ……っ」
「エリス」
 ヘルムートは長椅子に駆け寄ると、エリスの華奢な身体を力強く抱きしめてくれた。
「何もされなかった?平気?」
 返事をしようにもそれ以上は言葉にならず、エリスはその胸にしがみついて、こくこくと頷いた。
「――僕の妻に何をする気だった」
 氷のような凍てつく眼差しが男を射抜いた。
 並はずれた美貌を持つだけに、ただ睨まれるだけでも迫力がある。男は一瞬気圧されたようだったが、一転してあざけるように笑った。
「なにが妻だ。他に女がいるのだろう?そのような扱いをしておいてよく言う。彼女は私と結婚していた方が幸せだったのだ。それをお前が――」
「お前はよほどエリスのことを気に入っていたんだな」
 ヘルムートはエリスを抱きしめたまま、男を睥睨した。
「思い出したよ。確か結婚式にまできて、エリスのことを侮辱していたが……あれも悔しまぎれだったんだろう」
「黙れ。……お前だって同意したじゃないか、私が彼女のことを『子供も産めそうにない身体の、つまらない平凡な娘だ』と言ったことにも。『好きこのんで抱くのは物好きだけだ』と言ったことにも……!」
 エリスは息をのんだ。
 それは、あの結婚式の日に聞いた、悪夢のような言葉だった。
「や……」
 思いだして、再び涙がこぼれそうになる。
 でも。
 ヘルムートはエリスの頭にくちづけて、こう告げた。
「記憶力のない奴だな。僕は同意したわけじゃない、そのあとに言ったはずだ」


『まぁ、否定はしないがね。見方は人それぞれだから――でも、あいにくと僕はお前と違って、あの子の本当の良さを知っている。言葉やしぐさのひとつひとつが可愛くてたまらない。触れたくて仕方ない。――お前から、それを知る機会を永遠に奪ってしまって申し訳ないね』


 そう、嫌みも付け加えて。
 ヘルムートは嗤う。
「しかし、未練がましい男だな。結婚式にしてもそうだ。わざわざ足を運んで悪口を言いにきたり……」
「だ、黙れ!私はもうこんな娘のことなど何とも思っていない!ただ横から割って入った貴様が憎たらしくて、傷つけてやろうとしただけで……っ」
「割って入ったのはお前だ、馬鹿。僕とエリスは子供の頃から運命的に結ばれてたんだから」
 いけしゃあしゃあとヘルムートは言った。








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