男は顔を真っ赤にさせ、「覚えていろ、ヘルムート・ラングレー!」と彼を睨みつけると、乱暴な足取りで部屋を出て行こうとしたのだが。
エリスからそっと手を離し、立ちあがったヘルムートによって足をひっかけられ、派手に転倒した。
「きっ、貴様!!」
「あのさぁ、ただで帰れると思ってんの?人の妻を泣かせといて」
ヘルムートは起き上がろうとした男の顔を、靴の裏で思いっきり踏みつけた。男はまた転倒し、頭を床に打ちつけて呻く。
「さて、どうしてやろうかな。二度とそのアホな口がきけないように唇を縫いつけようか、それとも二目(ふため)と見られない顔にしてやろうか……」
「ひっ……」
目が本気だった。
男は恐れに身を震わせた。
けれど。
「ヘルムートさま……も、いいです……」
エリスは後ろから彼に抱きつくと、きゅっとその上着を握った。
「もう、いいんです……」
「エリス」
本当のことがわかったから。
あの結婚式の日の、本当のことが。
彼は自分を貶める言葉に、同意したわけではなかったのだ。それがわかって胸のつかえがすべてとれた。
だから、もうこの男のことはどうだってよかった。
「でもさ、――きみ一発殴っとく?」
「え、い、いいです……」
「そう?」
ヘルムートはつまらなさそうに言って、ようやく足を男からどかした。
そのとたん、男は逃げるように部屋から出て行った。
「で、本当に何もされなかったんだよね?」
「……あの、えと」
涙を舐められたことを、エリスは恥ずかしそうに白状した。
「…………ああそうなんだ。わかった」
かわいそうに、とまなじりに口づけられる。
その目がやっぱり笑ってない。
「あいつの家潰しちゃおうかな」
「え」
「冗談だよ」
あんまり冗談には聞こえなかった。
「他には何もされてない?」
「だいじょうぶです……ニコがきてくれて……あれ?」
振り返って、ニコがいた場所を見てみたけれど、そこに少年の姿はなかった。
いつのまに消えたのだろう。
「ニコって?」
「レスターのうちの子です。今度紹介しますね」
「いや別にいいけど……。あいつ今一人暮らしじゃなかったっけ?」
ヘルムートは不思議そうな顔をした後、そういえば、と言った。
「エリス、王宮に来るなんて何か急用でもあった?」
「あ……えと」
エリスは言葉につまった。
いま「好き」だと、もう一度告げたら。
彼はちゃんと信じてくれるだろうか。
「えっと、あの……」
「うん」
エリスは勇気をふりしぼった。
「すきです……!」
「……うん、えーっと、ありがとう。僕も好きだよ」
ヘルムートはエリスの頭を撫でた。
「でも、今朝も言ったけど、無理して気を遣わなくていいよ」
「無理なんて……」
やっぱり、なぜだかちゃんと伝わっていない。
エリスは泣きたくなった。
しょんぼり落ち込むエリスをそれ以上追求せず、ヘルムートはかわりにこんな提案をした。
「そうだ。せっかく王宮に来たんだから、僕と一緒にリカルドの婚約式に出てみる?」
――――こうして、エリスは初めて公の場に、ヘルムートと共に出ることになった。