食卓の椅子

 ある朝のこと。
 エリスが食堂に入ると、長テーブルの前に六脚あったはずの椅子が、なぜか二脚になっていた。
(あれ……?)
 なぜだろう。
 エリスは不思議に思いながら、扉の傍で立ちつくした。
 いつもは部屋の奥の席がヘルムートで、扉に一番近いところがエリスの定位置だった。つまり、二人は端と端に座っていたのだけれど。
 今日は、テーブルを挟んで向かい合う形で二脚の椅子だけが置かれている。
「……」
 困った。
 どうして突然、椅子が減ってしまったのだろう。これではどこに座ればいいのか分からない。
 一つは当然ヘルムートの椅子で、もう一つは、たぶん客人用の席だから。
 端っこにあるはずの自分の椅子がなくて、エリスは泣きそうになった。だって、まさか席がなくなるなんて思いもしなかったから。
 でも、それは仕方のないことかもしれない。
 エリスはしょっちゅう寝込んでは自室で食事をとっていて、ほとんど食堂に顔を出さなかったから。これからは席なんて不要だと思われたのかもしれなかった。
 しょぼん、と落ち込んで、エリスはうるうるした瞳のまま部屋から出ようとした。
 そのとき、ふいに斜め上から声をかけられる。
「エリス、どこ行くの?」
「……あ……」
 顔を上げると、そこにはエリスの旦那さまがいた。蜂蜜色の少し癖のある髪に、アメジストの瞳の、綺麗なひと。
 エリスはその天使のような容貌のヘルムートに、間近から顔を覗き込まれるのが苦手だった。彼と違って、綺麗でも可愛くもない顔を。
 だから、いつもの習慣で俯きながら小声で答える。
「え、えっと……。お部屋に戻ります」
「なんで。具合悪い?」
 そう言って頬に優しく触れられて、エリスの体温は一気に上がった。
「顔赤いけど、熱かな」
「あ、……ちが、ちがいます」
 ヘルムートは必死に首を横に振る妻に、くすっと笑った。そのちょっと意地悪そうな微笑み。
(か、からかわれてる……)
 なぜエリスの顔が赤いか、彼にはちゃんと分かっているのだ。
(いじわる……)
 まんまと赤面させられたこともそうだが、席がないのにいつまでもこの場にいることも恥ずかしくて、エリスは「失礼します……」と言って彼の横を通り抜けようとした。
 けれど。
「こら。逃げないの」
「……あっ」
 その小さくて細い手は簡単にヘルムートに捕えられてしまった。
「具合良いなら、一緒に食べてくれるよね、奥さん」
「え……でも、あの……席が」
 言っているうちに、ほろっと涙が零れた。
 ヘルムートが驚いた顔をする。
「なに、なんで泣くの?まったくきみは泣き虫だなぁ……。今日は何が涙腺を緩ませたのかな」
 部屋の隅に控えていた侍女の一人からハンカチを受け取って、ヘルムートはエリスの眦(まなじり)を拭いてくれた。
 けれど、『今日は』だなんて。
 エリスはちょっと不服に思った。
 今の言い方では、まるで毎日泣いているみたい。
「も……いいです、泣いてないです。へいきです」
 無意味な虚勢を張って、エリスは自分の手で涙の跡を消した。ヘルムートが片眉をあげる。
「へぇぇ。そう」
 なんだか。あれ?
 すごく意地悪な言い方をされ、エリスは困惑してヘルムートを見上げた。
 すると彼は――――。
「や……っ」
 ぺちん、とそこそこいい音がした。
 エリスは震える手を上げたまま、固まった。やってしまった。
 こともあろうに、この美しい人の顔を。顔を。
 ヘルムートはにっこり笑いながら、自分の頬をさすった。その笑顔が怖いと感じるのは、気のせいだろうか?
「きみって時々ホントいい度胸してるよね、エリス」
「ご、ごめんなさい……っ。で、でもだって、だって……」
 エリスは大いにうろたえた。
(だって急にお顔が近くに……っ)
 まるで、唇を触れさせる時みたいに近づいてきて、本当に急だったからびっくりしたのだ。それにこの部屋には使用人も何人か控えているのに。その面前でそんなこと。
 と、そこまで考えて、エリスははたと気づく。
(そ、そうよね。いくらなんでも人前で、そんなことしないよね。いくらヘルムートさまが意地悪でもそんな……)
 きっと、エリスの髪にほこりか何かがついていて、それを取ってくれようとしたとか、そういうことだったのだ。それなのに誤解して叩いたりして、エリスは申し訳なさでいっぱいになった。
「ホントにごめんなさい……」
「……」
 ヘルムートは無言だった。怒っているに違いない。
「あの……」
 エリスは再び涙のたまった緑の瞳で彼を見上げ、そして、すぐに下を向いた。
(早くお部屋に戻ろう……)
 これ以上いたら、また彼の気分を害するようなことになりかねない。
 そう思ったのに、
「エリス。こら。また一体どこに行こうとしてるの」
と一歩足を引いたとたん、その手をまたしても捕まれてしまった。
「自分のお部屋に……」
「朝ごはんは?僕と食べるの嫌なの?」
「そ、そんなこと……っ」
 あるわけがない。
 でも、席が――――。
「椅子、が」
「椅子?……さっきも席がどうとか言いかけてたけど。もしかして、座る位置のこと?」
 位置とかいう以前に、席自体がないんです、とエリスは思った。
「べつに僕は右でも左でもいいけど。きみの好きな方に座るといいよ。――しかしまあ、ずいぶん可愛いことで悩んで泣くねぇ」
 よしよし、とヘルムートは幼い頃みたいにエリスの頭を撫でてくれた。
 けれど、好きな方に座れということは、あの二脚の椅子の片方は、エリスの席なのだろうか。
「ヘルムートさま……」
「ん?」
「わたし、座ってもいいの……?」
「は?」
 エリスがたどたどしく思っていたことを口にすると、ヘルムートは一瞬呆れ、そして手を繋いだまま彼女を椅子まで誘導した。
「他に誰が座るっていうんだか」
「……お客さま……?」
「ここは家族用のテーブルだよ?さあ、座って」
 家族。
 その響きが彼の口から出ると新鮮で、どきどきした。
 自分が彼の家族なのだ、とエリスは改めて思った。
 ヘルムートは自分も席に座ると、向かい合う妻にこう言った。
「やっぱりこの方がいいね。きみときたら、いつも端っこにばかり座っていたから」
 椅子を減らしたら、必然的にこうして座るようになるだろう?
 旦那さまはにっこり微笑んだ。
 

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