春うらら 後編

「えっ」
 エリスはまたしてもびっくりした。
(ヘルムートさまが、わたしの髪を?)
 それはレスターが引き受けてくれるのと同じくらいに、ありえないことだった。
 だって彼は人に何かをしてもらう立場の人で、戯れにそうしてあげるような姉妹がいるわけでもなくて。
 驚いて固まっている間に、レスターはその場にとどまり、ヘルムートがエリスのベッドの上に腰掛けた。ふわりと波打つ栗色の髪の毛を手に取られる。
「え、あ、だ、」
「だ?」
 ヘルムートは首を傾げながら、メアリに手渡された櫛でエリスの髪を梳き始めた。顔が近い。綺麗なアメジストの瞳が覗き込んでくる。エリスの顔は、みるみるうちに真っ赤になった。
「だめですっ」
 ぱっとヘルムートから身体を離したエリスは、頬を赤くしたままベッドの上から降りると、テーブルに身体を預けて立っているレスターの方へと駆け寄った。
 腕組みをして成り行きを眺めていたレスターは、自分の後ろにささっと身体半分を隠したエリスにちょっと片眉を上げたが何も言わなかった。
 そのかわり、ヘルムートが低い声でこう言った。
「………なるほど、良く分かった。きみは僕より、そのぶきっちょ村の村民にやってもらいたいわけだ……?」
「誰がいつそんな村の村民になった」
 レスターは冷静に突っ込んだが、聞く者はいなかった。
 なにしろ、すでにメアリともう一人の侍女は部屋から去っているし、エリスはそれどころではないのだ。レスターの服の背中にしがみつきながら、蛇に睨まれたカエルよろしくふるふる震えていた。
「エリス」
「は、はい……?」
 天使さまがものすごく怒っているのが、ひしひしと伝わって来る。
 失礼な態度をとってしまったからだ、とエリスは泣きそうになった。
 ヘルムートはベッドに片膝を立てて座り、頬杖をついた。
「僕に触られるのが嫌なの?結んであげるって言ってるのに、そういう態度はないんじゃないの」
「は、はい……、ごめんなさ……」
 言葉は最後まで続かなかった。
 ヘルムートさまに怒られた、きらわれる、という言葉が頭の中をすさまじい勢いで回り始め、涙が零れ落ちた。ぐすっと鼻をすすりながらレスターの背中に顔を寄せる。
「おい、人の服汚すな」
 レスターにとても迷惑そうに言われたけれど、それよりヘルムートの言葉の方が堪える。
 エリスはぎゅうう、と身を守るようにますますレスターに身を寄せた。
「おーひーめー」
 しかめ面のレスターは、けれどエリスを引きはがすようなことはしない。
 舌打ちひとつで、容認してくれた。
 一方、ヘルムートの顔はだんだんと険しくなっていった。視界の端にそれをとらえ、エリスは涙ぐむ。どうしたら許してもらえるんだろう。わからない。
 すると、その時。
「お姫」
 レスターが、小さな声で言った。
「解決策を教えてやる」
「え、ほ、ほんと……?」
 やっぱりレスターは頼りになる。
 見上げた先の琥珀色の瞳が、一瞬だけ悪戯っぽく煌めいたのに、エリスは気づかなかった。
「じっとしてろ」
「え……?」
 何が起こったのか分からなかった。
 肩を掴まれ、覆いかぶさるように影が落ちてくる。
 レスターの整った顔。
 なんだかとても近くなってきているような。
 そして、気がついたら――――――エリスはなぜだかレスターではなくヘルムートの腕の中にいた。背後から抱きしめられるような形で。
「え、え?ヘルムートさま……?」
 その体温や匂いをはっきりと感じて、エリスは先ほどよりもさらに赤くなった。
 混乱していると、ヘルムートの手に両耳をふさがれた。
(あれ?)
「ヘルムートさま?」
 見上げようにも彼は背後に立っているし、耳をふさがれて頭を固定されているのでどうしようもない。
 だから、エリスはヘルムートがぞっとするような冷たい声で、レスターに何を言ったのかは、まったく聞けなかったのである。
『このクソ魔法使い。てめぇ今なにしようとした。×××××てやる』
『ただの冗談だろ?アンタに怒られる謂われもない。×××野郎』
 対するレスターも、鼻で笑って何かを言っていたけれど、エリスの耳には届かなかった。
 やがてレスターが肩をすくめて、いつものようにテラスの出入り口から出て行くと、エリスはようやく耳の上から手をよけて貰えた。
 ヘルムートはなでなで、と先ほどまでの不機嫌はどこへやら、エリスの頭をやさしく撫でてくれた。
 そろそろと彼を見上げる。
「も……、怒ってないですか……?」
「うん」
 いったいその怒りがいつのまに放出されたのかは分からないけれど、無表情ながらハッキリと頷いてくれたので、エリスはほっとした。
「あの、さっきは、ごめんなさい。ヘルムートさま……」
「もういいよ。きみが僕よりアレを頼りにしているのは今に始まったことじゃなし」
 ………………やっぱりまだちょっぴり怒っているのかもしれない。
 エリスは下を向いて、くすんと涙を飲み込んだ。
「でも、まぁ、そうだな……」
 と、彼は言った。
 もう一度見上げると、天使さまは綺麗に微笑んでいた。
「恥ずかしがらずに最後まで僕に髪を結わせてくれたら、許してあげるよ」
「………………へるむーとさま」
「うん?」
 逃げたのは何となく気恥ずかしかったからだと、ちゃんと分かっていたのに、あんなにも怒った彼はやっぱりいじわるだ、とエリスは思った。
 逃げ込んだ先にも問題があったのだとは気づかぬままに。
 エリスは意気込んで言った。
「がんばります」
 その返事にヘルムートが小さく噴出した。よかった。ご機嫌直った、とエリスは嬉しくなった。
「はい、じゃあがんばって耐えて。――――僕も頑張って結んでみるよ」
 それからメアリが戻って来るまで、ふたりは降り注ぐ春の日差しの中で、仲良くいつものように過ごしたのだった。

おわり

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