淡く黄色い蝶が、ひらりひらりと舞っていた。
「かあさま、ちょうちょ」
「あー、うん、ちょうちょだねー」
蜂蜜色の髪をした小さな男の子は、そのアメジストのような瞳で隣にいる母親を見た。
するといつの間にやら、彼女は仰向けに寝転がって目を閉じていた。せっかくポカポカ陽気の中、春の野原にピクニックに来ているのに完全に寝る気である。
「かあさま、ねないでよ」
「んー……、揺らさないでヘルムート。かあさま超眠いの。あんたのとうさまが夕べ寝かしてくんなかったから」
「なんで?」
「ううーん、仲良しこよしだからよ」
「……?」
よく分からないが、両親が仲良しなのはうれしいことだ、とヘルムートは思った。
サワサワと気持ちの良い風が吹く。
野原は爽やかな緑と花の匂いに包まれていた。
「はるってきもちがいいね、かあさま」
「んー、そうね…………」
「ねないでよ、かあさま」
「ヘルムート、かあさまホント眠い。寝かして」
「もう……しかたないなぁ」
「起きたらたくさん遊ぼうね、ヘルムート」
「うん」
母親はヘルムートの身体を抱き寄せて、ちゅっと鼻の頭にキスをした。
* * *
「ヘルムート……」
季節は夏。
ヘルムートはだらだらと汗をかいていた。
むろん暑さのせいである。
が、それだけではない。
腕に抱えている毛玉のせいでもある。
「それはなんなの、ヘルムート」
母親はにっこりと微笑んで訊いてくるが、目が笑っていなかった。
ヘルムートはぎゅうっと腕の中の毛玉、もとい白うさぎを抱きしめる。
「ぼく飼いたいんだ。おねがい、かあさま」
「かあさま反対。拾った場所に捨ててらっしゃい」
「でもかわいいよ、ほら見て、かあさま。ふかふかだし」
「三秒以内に捨ててこないと、かあさまサバくわよ」
「さば………?」
「サバく。つまり夕飯はうさぎの照り焼きよ」
「………………………………戻してくる」
「あら残念。食べたかったのに。でもさすがはあたしの子ね、聞き分けよくっておりこうだわ」
母親は満足げにヘルムートのつむじにキスをした。
その日の夕飯は別のうさぎの照り焼きだった。
* * *
季節は、寒くなってきた秋の終わり。
「かあさま、うさぎじゃないならいいでしょう?ぼく、このネコ飼い……」
「ネコ鍋って案外イケるかも………」
ぽつりとどこか遠くを見つめて呟く母親を見て、ヘルムートは「返してくる……」としょんぼり茶色い猫を抱えて出て行った。
* * *
春の足音が聞こえ始めた冬のこと。
「誕生日、何がほしい?ヘルムート」
「えっとねぇ……」
にこにこ頬杖をついて見つめてくる母親に、ヘルムートは笑顔で答えた。
「鳥!」
「とり………」
「きいろい羽のキレイな小鳥がいいなぁ」
「ヘルムート………」
「どうしたの?かあさま」
まさか鳥も丸焼きだの鍋だのにするなんて言わないよね、とヘルムートが思っていると。
「鳥ってね、ヘルムート」
「う、うん」
深刻そうに母親は言った。
「どんなに小さい鳥でも、真夜中になると突然部屋いっぱいの大きさに変身するのよ」
「………かあさま、そんなはず」
「まぁ……信じないならいいけど。買ってあげるわ……。でもね、ヘルムート。覚悟は持っておくことね。あんたがねだって手に入れた小鳥が、真夜中に巨大化してバリバリ屋敷ごと、かあさまやとうさまや使用人のみんなを食べちゃっても、後悔しない覚悟をね……」
「…………………………ぼく図鑑でいいや」
「家族思いの良い子ね、ヘルムート」
母親はにっこり微笑んだ。
* * *
「………………」
ヘルムートはぱちりと目を開けた。
寝起きの悪い自分にしては、めずらしく頭がはっきりしている。
なんだかものすごく懐かしい夢を見ていた。
まだ母親が生きている頃の夢だった。
ヘルムートの母親は、彼が小さいときに亡くなった。幼心にも変わった人だと何となく感じていたが、こうして思い出してみると、本当におかしな人だった。
ベッドから降りて、薄いカーテン越しに朝日に照らされた寝室を歩く。書棚の前に立って、ヘルムートは一冊の本を手に取った。
それは母親に買ってもらった図鑑だった。中をぱらぱらとめくる。開くのは久しぶりだ。子供用のものではなく、ちゃんと大人向けの内容で、表紙にはお茶をこぼした跡。昔、新米女中がこぼしたのである。あれには本気で腹が立った。
腹を立てながら、ちょっと意外に感じたのも覚えている。
小鳥のかわりに買ってもらった鳥図鑑にはけっこう不満を抱いていて、さほど大切にしていたわけではなかったのに。
たとえもっと汚れようが、破れようが、一ページだけになろうが、自分はそれでも大事に取っておくような気がして。
(ていうか、実際ぜんぶ取ってあるんだよな……)
この表紙の汚れた本だけではなく、母親に与えてもらったものはすべて、かつて彼女の部屋だったところに保管してある。
黄色い蝶の刺繍をしてくれたハンカチも、うさぎの照り焼きを夕食に出したことへの謝罪をしたためた長い手紙も、猫のぬいぐるみも。
『かあさま、ぼくわかった』
『なにが?』
『かあさまは、動物がきらいなんでしょ?』
『…………………』
あのとき母親はヘルムートの言葉に一瞬無言になり、それから微笑んで、
『そんなことないわよ』
と言い切った。
どう考えても図星だったくせに。
決してそれを認めようとしなかったのだ。
別に嫌いなら嫌いでいいのに、なぜああまで意固地に否定していたのかは、後に父親に聞いて知った。
『嫌いと言うより苦手だったんだよ。で、負けず嫌いだったから、苦手なものがあるとは認めたくなかったんだろう』
『フゥン……そういえば、よく父さまともくだらないことで張り合ってたもんね』
『はは、そうだったな』
父親は遠くを見つめた。
たぶん、色々思い出していたのだろう。
ヘルムートも両親の交わしていた会話を思い出した。
『………あなたより、あたしのほうが色白だわ』
『なんだ、突然』
『それにほら、腕も細いし』
『きみより細かったら、もうきみを抱き上げられないな』
『目も大きいし』
『猫みたいに生意気そうなきみの目は、私のお気に入りだよ』
『か、髪も長いし』
『まぁ、うちの国では髪の長い男も髪の短い女性も珍しいからね』
母親はそこで悔しげに唇を噛んだ。
『毎日ちゃんと肌のお手入れもしてるし!』
『…………さっきから何を言いたいのかな、きみは』
『何をですって?』
ぼふん、ぼふん、とソファーのクッションを叩きながら、彼女は言い放った。
『なんで男のあなたほうがあたしよりずっと美人なのかってことに決まってるでしょ!?なにこの睫毛の長さ!髪のさらさら具合!吹き出物一つないきれいな肌!一点の問題もない造作!ホントに見るたびに腹が立つわ!』
無茶苦茶である。
端で聞いていたヘルムートや執事のセドリックは深く沈黙した。
一方、理不尽な苦情をまくしたてられた父親は、やれやれと呆れたようにため息を吐いた。
『なら、なぜきみはその腹の立つ男と結婚してくれたのかな』
『腹が立つけど好きなのよ!その美人顔!あたしの理想そのものなの!』
『お褒め頂き光栄だね』
『……だからうっかり結婚承諾しちゃったのよねぇ……』
『………うっかり?』
『うっかり』
こくりと頷いた母親に、いつも穏やかな父親の機嫌が低下していくのをヘルムートは物珍しく観察したものだ。
あんなに馬鹿らしい夫婦喧嘩、たぶんもう一生見ることはないだろう。
鳥図鑑をぱたんと閉じて書棚に戻し、ヘルムートはベッドに戻る。
そして、いつの間にか目覚めていた愛しの妻にキスをした。
「おはよう、僕の可愛い奥さん」
恥ずかしそうにしながら、ほにゃりと笑う彼女をやさしく見つめながら思う。
母親がこの子を見たら、なんと言うだろう。
ヘルムートは想像してみた。
(まさか捨ててらっしゃい、とは言わないだろうけど)
どんなにクリクリとした目の可愛い小動物でも、断固として拒否していたことを思い出しながら、くすりと笑う。
「ヘルムートさま……?」
「なんでもない」
大きな緑色の瞳でくりっと自分を見上げる妻に、ヘルムートは幸せな気持ちで微笑みかけた。
おわり