続 手のひらのきみ

「じゃあね、エリス。明日も来るから」
「きゅぅ……」
 ヘルムートがさよならを告げて手を振ると、ねずみーにょエリスも小さな小さな手を振った。
 いまの彼女専用につくられた籠ベッドの中から、ちょこんと顔と手だけ出している姿に、ヘルムートはくらりとする。どうにか永久保存しておきたい光景だ。
「良い子にしてるんだよ」
 改めて挨拶をして、ヘルムートはなんとか愛らしいねずみーにょエリスの呪縛から己を取り戻し、部屋を出た。危ない危ない。あのまま見つめていたら、連れ去るところだった。
 そして自宅に戻ったヘルムートは、使用人にこう命じた。
「ロビン」
「はい、若さま」
「ねずみーにょを取ってきてくれ」
「…………えっとあの、すみません。もう一度お願いします」
「だから、ねずみーにょを取ってこい」
「ねずみー、にょ?ですか」
「そう」
 ごく当然のように初めて聞く固有名詞を出された使用人、ロビンは困惑した。ねずみーにょ何それネズミの仲間?でも『捕まえる』じゃなく『取る』って言ったような。
「あの、若さま……?」
「一匹でいいよ」
(匹、ということはやはり生き物か)
 しかし、一匹でいいも何もどんなものかが分からない。
 ロビンは正直に言った。
「ええーっと、あの、僕それ知らなくて。どこにいるんですか……?天井裏とかですか?それとも市場に売ってます?」
 すると、若さまは首をかしげた。
「さぁ。市場にいるかどうかは知らない。天井裏にいるかもしれないのは普通のネズミだろ。ねずみーにょは国境沿いの森に埋まってるらしい」
「う、埋まってる!?……んですか?」
 なにそれどんな生き物。
 ロビンが驚いていると、若さまはさらに言った。
「そう。ニンジンやカブみたいに」
「ニンジンやカブみたいに……?」
「頭だけ出しているそうだ。土から出そうとすると指を噛んでくるらしいから、気をつけろよ」
「噛む……?」
 ニンジンやカブみたいに土に埋まっていて、頭だけ出していて、指を噛むねずみーにょ……。どうでもいいけど、『にょ』ってどういう意味でついているんだろう。
「あと、小さくてすごく可愛い」
「可愛いんですか……」
 そんな頭だけ出して土に埋まっている凶暴な生き物が?
 若さまの趣味って謎だ、とロビンは思い、そこでふと気づく。
「あれ。いや、ちょっと待ってください。国境沿いの森っておっしゃいました?」
「おまえ僕と同い年でもう耳が遠いの」
「確認ですよ!だって、こ、国境沿いの森って」
「なぜか行方不明者がぞくぞくと出ている愉快な森。奇跡的に生還した者たちはみんな『鎌を持った魔女のバアさんに「待て夕食」って叫びながら追いかけられた』って言うらしいね。朝食と昼食とデザートの場合もあったとか」
「なぜかじゃなく行方不明の原因はっきりわかってますよね、それ!ていうか知ってるなら行かせないで下さいよ!何が愉快なんですか!?僕いやですよそんなコワイところ!」
「怖がりだな、ロビン。奇跡が起きたら生還できるよ、ねずみーにょと共に」
「奇跡が起きなかったら、僕はねずみーにょと共に魔女のごはんにされますよね!?」
「最悪の場合、お前がおとりになってねずみーにょを森の外に逃すように。別の人間に迎えに行かせるから」
「いやだぁぁ」
 ロビンは叫んだが、ヘルムートは無情にも命令を取り消さなかった。
 ――――そして数日後。
「おかえりロビン。ねずみーにょは」
「……ええはい分かってましたよ、若さまが僕のこのヨレヨレな姿見ても『大丈夫か』とか『ご苦労だった』とか言って下さらないことくらい……」
「ダイジョウブダッタカ、ゴクロウダッタ。で、ねずみーにょは?」
「完全に棒読みじゃないですか。もういいですけど……。はい、これですよね、ねずみーにょ」
 ロビンは頑丈な鳥かごをヘルムートの前に持ってきた。
 中にはまさしく小さなねずみーにょが入っていた。
「きゅう」
「うん、これこれ」
 ヘルムートは満足してにっこり笑った。
 その作り物ではない、嬉しそうな笑顔に、ロビンの疲れは一気に吹き飛んだ。こんなふうに心から笑ったときのこの人には、きっと本物の天使も霞むだろう。
(……僕もたいがい若さまに弱いよなぁ……)
 普段が普段なので、たまにこういう素直な笑顔を見てしまうと、ついコロッとほだされるというか魅了されてしまう。まったくタチが悪い悪魔さまである。
「ところで、いた?」
 ねずみーにょに鳥肉を与えながら(見かけによらず肉食だった)、若さまは唐突に訊いた。
「例の魔女」
「まじょ……」
 その瞬間、ロビンの脳裏には一瞬にして悪夢の記憶が蘇った。
「ロビン?」
 噂どおりの体験をしてしまったロビンは、蘇えった恐怖にガタガタぶるぶる震えだす。
「いたのか」
「お、追われましたよ!鎌片手に……!僕とねずみーにょは死ぬかと思いました!」
「なんでねずみーにょの気持ちまで分かるんだ。――で、ちなみに捕まってたら何にされるところだったの。朝食、昼食、夕食、それともデザート?」
「……出汁(だし)です。『待て出汁ども』って叫びながら追いかけてきたんで」
「…………」
「若さま。笑ったら怒りますよ。今までに犯した悪魔的所業をぜんぶエリスさまにバラしますよ」
「お前が気安く名前で呼ぶな。――まぁ別にいいよ、バラしても」
「えっ」
「あの子はそれでも僕を嫌わない気がする」
「……そりゃあ、若さまのへそ曲がりで気難しくて意地悪などうしようもない性格を知っていながら、それを『ほんのちょっぴり意地悪だけど、やさしい人』っていうちょっと信じがたい解釈して許容なさっちゃうような変わった――いえ心の広い方ですしね」
「お前ケンカ売ってんの」
「じ、事実じゃないですか。――でも、どうします?もしも万が一『そんなヘルムートさまキライ』なんて言われたら」
「とりあえずお前をブチのめす」
「さらっとコワイ宣言しないで下さいよ!」
 絶対に黙っていよう、とロビンは心に誓った。
 そのとき、ねずみーにょが「きゅう」と鳴いた。
 ロビンは鳥かごを覗き込むと、思わず微笑んだ。
「かわいいなぁ。こっち見てる。若さまが欲しがった理由がわかりますよ」
「……」
「あれ?どうしたんですか、そんな微妙な顔なさって」
そう訊ねたロビンと鳥かごの中のねずみーにょを放置し、ヘルムートは無言のまま出かけて行った。
 
 *
 
 到着したのは、伯爵家。
 エリスの部屋を訪ねると、もうちゃんと人間に戻っているエリスが、ベッドですやすやとお昼寝をしていた。その穏やかな寝顔を眺め、ヘルムートは微笑みを浮かべる。
 ちょん、とほんのり赤い頬をつついてみた。
「ん……」
 くすぐったかったのだろうか、エリスは少しだけ身じろぎした。
 ヘルムートは確信する。
 ――――やっぱり、あの小さな生き物をあれほど可愛いと思ったのは、この子が変身していたからなのだ。
 でも。
「……元のきみが、いちばん可愛い」
 そして、何よりも愛しい。
 ヘルムートは、そっとその額に口づけた。



 

おしまい


 

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