「やあ、レスター」
伯爵家の庭を横切ってエリスの部屋へ向かっていたレスターは、その途中で身なりの良い男と出くわした。栗色の髪の、見るからに人の良さそうな笑顔を浮かべた男である。
「いつもエリスがお世話になって、ありがとう」
「…………」
レスターは一応立ち止まったが、言葉は返さなかった。
ただ冷たい視線で相手を見上げる。身長が足りないのが口惜しかった。できれば見上げるのではなく見下ろしてやりたい。
そして、祖父とルイーゼが許すのならば一発くらいは殴って「この大まぬけ」と心の底から罵りたい。
「?」
何も答えず睨んでくる子供に、相手は不思議そうな顔をした。
実に鈍感な男だ。
本物の大まぬけだな、とレスターは思いながら顔を背けて歩き出した。
舌打ちが出たが、そのくらいは祖父もルイーゼも許すだろう。
(よりにもよって、なんでこんな)
平和な田舎でのんびり能天気に暮らしているような男が。
『レスター。もしいつか、あなたが彼に会う機会があったら、そのときは好きにするといいわ』
――――好きにって、たとえば。
『言葉通りよ。ぜんぶ話してもいいし、逆にぜんぶ黙ったままでいてもいい』
――――なるほどな。じゃあ、あんたの代わりに大まぬけの鈍感やろう、って怒鳴りながら殴り倒すことにするよ。もし会うことがあったらな。
『あ、それはダメよ。うん、ダメ、好きにしてもいいけど、それはダメ』
――――おい、矛盾したこと言ってるぜ。
『わかってるけど。あのねぇ、レスター。彼にはきっと、かわいい子供がいるわ。美人な奥さんもね。なのに殴ったりなんかして、その人たちに心配かけたら可哀相でしょう?』
――――どうにかならねぇの、あんたのその、反吐(ヘド)がでそうなお人よし体質。
『アラ、あなたもしかして、自分はそうじゃないとでも思っているの?賢いくせにそういうところはお馬鹿さんね』
――――……。
『やぁね。誰に似たの?その目つきの悪さ。……ねぇレスター。わたしがなぜ、あなたに彼の名前と居場所を教えたのか分かる?』
――――さぁね。
『本当に分からないの?わたしが何を考えているかなんて簡単じゃない。
いつか、あなたが一人ぼっちにならないためよ』
そんな会話を思い出しては思う。
余計なお世話だ、いらぬ心配だと。
自分には祖父がいる。
ルイーゼもいる。
ほかに何が必要だというのか。
誰しも、いつかは大事なものを失う。
代わりも予備も必要ない。
どうにもならない苛立ちに、今日もレスターは飲み込まれる。
この渦巻く感情は、きっとあしたになっても消え去らない。あしたも、あさっても、永遠に消える気はしない。
こんなものを消す魔法も知らない。
「レスター」
いつものようにテラスから部屋に入ると、こちらの姿を見つけた少女が驚いたように名前を呼んだ。
朝一番で、いりもしない誕生日の贈り物を持ってきたとき、それごと追い返したから、どことなくビクビクとしているように見えて、その態度にレスターは苛立つ。自分がそうさせているのだと分かっていても。
この何不自由なく、ぬくぬくと育った世間知らずのお姫さまが嫌いだった。
そう、嫌いだ。こんな、何も知らず幸せに暮らしてきた人間は。
だから、つい冷たく当たってしまう。
そうすれば祖父に叱られるのが、分かっていながら。
優しくしようとも思わない。
「あの、朝は、ごめんなさい……。よけいなこと、して……」
「まったくだ」
言い放つと、お姫さまはしょぼんと俯いた。うっすら目に涙が溜まっていることに、レスターは気づきながらもそれをどうにかしようとはしなかった。
いっそのこと、もっと泣けばいい。
意地悪く思った。
なのに。
わたあめみたいにフワフワした髪の少女は、涙をごしごしと手の甲で拭うと、顔を上げて言った。
潤んだばかりの緑の瞳が、窓から差し込む陽射しを受けて煌めいていた。
「わたし、いつかレスターのお誕生日、お祝いさせてもらえるようにがんばるね」
思いがけない言葉に、レスターは一瞬言葉を失った。
なんだそれは。
「…………おまえ馬鹿じゃねぇの」
レスターは眉根を寄せた。
このわたあめは、どうかしている。
これだけ酷い態度をとっている相手に、まだそんなことをしようと企んでいるなんて。そもそも、もう余計なことはしないと朝言っていたくせに。『いつか』はそれに含まれないとでも思っているのか。
それに一体なにをどうがんばるというのだ。意味が分からない。この生き物は、じつに謎めいた思考回路をしている。
本当に理解できない。人に冷たくされることに慣れていないくせに、こちらの言葉にいちいち傷ついて落ち込んでいるくせに、なぜまだ自分のほうから関わろうと思えるのか。
なぜ、初対面のときから変わりなく、真っすぐに自分を見つめてくるのか。
ふわりと花開くように、心から微笑むことができるのか。
「馬鹿でも、いいもん。――――あのね、レスター、一緒にお茶のもう?あ……メアリにお願いして、おやつも付けてもらうね。レスター、甘いもの好きでしょう?」
そんなことを言った覚えはない。
けれど、当たっていた。
レスターは甘いものが好きで、伯爵家でお茶のお供に菓子が出されるのを、ひそかに楽しみにしていた。
「…………このわたあめ」
レスターは、思わず口の端を上げた。
のほほんとして、ぼんやりしているくせに、意外に人をよく見ている。あなどれないわたあめ様である。
「え?なぁに?」
わたあめと呼んだのが聞こえなかったらしく、お姫さまは首をかしげた。
ちんまりとしていて、いかにも儚げな姿をしているくせに。
それなのに、案外打たれ強い。
おかしな奴だ。
「レスター?」
答えないでいると、お姫さまはちょっと不安そうな顔をしたが、レスターがテーブルの前の椅子に座ると、ぱっと表情を明るくした。
ころころ表情の変わる、おかしな、おかしなお姫さま。
レスターはテーブルに頬杖をついて言った。
「さっさと用意させろ」
「うん……っ」
なにがそんなに嬉しいのだか。
ただ、お茶と菓子を食べるためだけにいる相手に、そんなにも笑顔を向ける。
エリスが侍女を呼ぶために、ベルを鳴らした。
その音はとても澄んでいて。
一瞬、レスターの心に響き渡った。
『ねぇ、レスター?』
――――なんだよ。
『ふと、すごいことに気づいたの』
――――何。
『ウフフ、あのね。彼に、もし子供がいたら、その子はあなたの―――……』
――――冗談じゃねえ。いらねーよ、そんなもん。
『あら、素敵なことなのに。だって、ねぇ、そうしたら、あなたはわたしたち大人が皆いなくなっても、一人にはならないわ』
――――俺はひとりでもいい。
『そんな悲しいことを言うものじゃないわ、レスター。あなたがひとりぼっちになるところなんて、わたし雲の上から見たくないわ』
――――知るかよ。
『わたしの可愛いレスター。強がりもほどほどにね……』
蘇った記憶に、余計なお世話だと返しながら、レスターは運ばれてきたお茶を飲む。
向かいの席では、自分より小さな生き物が、ふうふうとお茶を冷ましている。
「……」
誰も彼もが同じことを言う。
亡くなった母親も、祖父も、ルイーゼも、伯爵家のジジイも。みな。
いらぬ心配をして、余計な、本当に余計なことを言う。
『あの子がいる限り、大丈夫。お前はひとりにならない』
レスター自身はそう思わない。
きっと一生、そんなふうには思わない。
このお姫さまと自分の人生は、今、ほんのいっとき重なっているだけで、いずれ分かたれる。
永遠にこの奇妙な関係が続いたりはしない。
いずれ、終わるときは来る。
だから、それまでは。
つかのま、祖父たちの望むように、この弱いんだか強いんだか分からない生き物の傍についていて、本気で守ってやってもいい。
きっと、あしたになったら終わるはずだと思いながら、毎日、毎日。
* * *
ところがどっこい。
「俺が浅はかだった」
レスターは皮肉めいた笑みを浮かべた。
めそめそめそめそ、結婚して人妻になっても、まだ泣き虫が治っていないわたあめ様を見下ろして呟く。
「お前との縁がここまで続くとはな」
「あ、あのね、れすたー」
「今度はなんだ。公爵はどうした?」
お姫さまは魔法のかかった白いウサギのぬいぐるみに呼びかけて、こうしてレスターを呼んだわけだが、その部屋に彼女の夫の姿はなかった。
いたのは、めそめそめそめそ泣きべそをかいている人妻だけ。……しかし、こうも『人妻』という単語が似合わない人間はいないな、とレスターは半眼で見下ろしながら思った。
「へ、る、へるむーとさま、に」
「”に”?」
「き、きらわ、きら」
「嫌われた?」
要領を得ない言葉から推測して言えば、どうやら当たっていたらしい。わたあめ様の大きな緑の瞳にぶわりと涙が盛り上がった。
「ふぇ、ふぇぇ」
「………………」
レスターは呆れ顔になった。
「お前……、あの公爵のどこをどう見てそう判断した?」
「だ、だって、だって」
レスターは、彼にしては辛抱強く話を聞いてやった。
そして、エリスの話をまとめると、こういうことだった。
朝、公爵が出かけるとき、大勢の使用人の前で唇に口づけされそうになったので、それを恥ずかしさのあまり拒否したら、コワイ目でにっこり微笑まれ、「あっそう」と言われた。謝っても無視されて、公爵はそのまま出かけていった。以上。
「くっだらねぇ」
吐き捨てるようにレスターは言った。
「く、くだらなくないよう……」
「お前よくその程度のことで俺を呼んだな」
「だって何かあったら呼んでもいいって、このあいだ」
「……言ったな、気まぐれに。確かに。だが、こんなことで呼ばれるとは思わなかった」
すんすん鼻をすするエリスのおでこを指先で弾く。
「いた……っ」
「つーか、俺がいたら余計に機嫌が悪くなるとは思わねぇのか」
――――ヤレヤレ。
まぁ、ちょうど仕事も暇な時だし、ひとつ公爵をからかって遊ぶのも悪くないかもしれない。
レスターは帰宅したヘルムートが、妻の傍にいる自分を見てどんな反応をするのか意地悪く想像しながら、わたあめ様の傍に置いてあったハンカチを無言で差し出した。
しかし、まさかこんな未来が来るとは誰が想像しただろう。
ハンカチを受とる白い指先が、レスターの指にかすかに触れる。
目が合った。
緑の大きな瞳。
いつかと同じ、煌めく翡翠の宝石。
どこも似ていない。
琥珀の瞳で見つめ返しながら、レスターは思う。
何の共通点もない。
こんな、お姫さまなんかとは。
「ありがとう、レスター」
「……うっとうしいから、さっさと泣きあとを拭け」
「うん」
きっと何も気づいていない。
この先も、気づくことはない。
それでいい。
何も知らぬまま、このまま。
レスターは口の端を上げて笑う。
「さて、お前を泣かせた公爵を、どうからかってやろうか」
雲の上の人々は、今ごろニヤニヤ笑っているに違いない。
それはシャクに触るが、まぁいい。
昔あった激情は、もうどこにもなくて、いつの頃からか穏やかに凪いでいるから。
少しくらい優しくしてやってもいい。
気まぐれに、ほんの、少しくらいは。
おわり