「ねぇちょっと、あなたの奥さんが暇を持て余しているわよ」
椅子の横まで歩いてきた白猫の言葉に、彼は先ほどから読んでいる本に視線を落としたまま、こう返した。
「それはきみのことかね?」
「他に奥さんいないなら、そういうことになるわね」
「奥さんはきみだけだよ」
「じゃあ早く構ってあげないと」
「構って欲しいのかね?」
彼は相変わらず紙面の文字を追いながら訊いた。
白猫は答える。
「あなたの奥さんはそうしてって」
「私の奥さんは、今ちょうど犯人がわかるところだから、少し待ってはくれないだろうか」
「旦那さんは推理小説なんか読んでたの?」
「たまには魔法に関係のない本を読んでみようかと思ってね」
「あとどのくらい?」
「ほんの少しだよ」
その返事に、白猫は沈黙した。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……旦那さん、もう終わった?」
「もうちょっとだよ、奥さん」
「……」
「……」
「……ねぇちょっと、あなたの奥さんが暇だからあなたのズボンを齧ろうとしているわよ」
「それはきみのことかね?」
「ガジガジ」
「もう齧っているね」
「まふひ」
「そりゃあ、おいしくはないだろうね」
「ガジガジ」
彼はふう、と溜め息をついた。
パタンと本を閉じる。
「終わった?」
「私の奥さんが可愛らしい邪魔をしてくれるのでね、残りは帰って来てからにしよう」
「それはあたしのことね?」
「きみが他に旦那さんを持っていなければ、そうなるね」
「旦那さんはあなただけよ」
「それはよかった。じゃあ、出かけようか。街まで行って、奥さんの好きなキラキラしたものでも買おう」
「やったー!」
るんた、るんた、と白猫は弾む足どりで部屋の扉の前まで行く。
椅子から立ち上がった彼は、その後ろをついていって、小さな彼女のために扉を開けてやった。
「レスターちゃんも早く来なさいな。置いて行くわよー!」
廊下に出て行った白猫が、孫に呼びかける声が聞こえて来た。
「……といっているが、行くかね?」
彼は先ほどから同じ部屋の中にいた孫に、扉を手で押さえたまま訊いた。
すると、隅っこで大人しく魔法の実験をしていた孫は、呆れ返った顔でこう言った。
「行かねぇ。つぅか、なぁジイさん」
「なんだね、孫よ」
「あれは、なんでああなんだ?」
「あれとは」
「バアさ……ルイーゼ」
バアさんなどと言ったら、白猫ぱんちをされるので、孫は途中で言い直した。
「ジイさんと年ほとんど変わらねぇんだろ。なのに、ぜんぜん年寄りらしくねぇ」
「年寄りくさいルイーゼなど、ルイーゼではないよ。たとえば明日の朝、急にルイーゼが自分のことを『おばあちゃんはね』と言ってみたり、よぼよぼした動きになっていたら、お前はどう思う?」
「…………」
孫は眉間の真ん中にシワを寄せ、少し考えてから答えた。
「こいつはルイーゼじゃない」
「私もきっと同じことを思うよ――――それで、私の可愛い孫は本当に留守番でいいのかね?」
「かわ……それ俺のことか」
顔を引きつらせた孫に、彼はにこりと笑いかける。
「私の孫は他にいないから、そういうことになるね」
そのとき、白猫が「アレイスター? レスター?」と呼ぶ声がした。
「俺は留守番でいいよ。ジイさんもたまにはそのほうがいいんだろ」
そっけなく言い、孫は魔法の実験に戻った。分厚い本をめくり、透明な容器の中の液体を観察する。
「気を遣わせてすまないね、レスター。お土産を買ってくるよ。何がいい?」
「……甘いもの」
「はいはい」
彼は快く承諾し、孫を残して廊下に出た。
居間のほうで白猫がじっと座って自分を待っているのが、ずいぶんお行儀よく見えて、くすりと笑う。
彼女が首をかしげた。
「レスターは?」
「留守番を引き受けてくれたよ」
「もう。三人で出かけたほうが楽しいのに」
「そう言わず、たまには私と二人きりでデートをしておくれ」
「…………」
白猫はびっくりしたように彼を見上げた。
居間まで歩いてきた彼が、今度は先に玄関に向かう。
「奥さん行くよ」
「えー、と、はい」
てこてこ玄関を出ながら、白猫はもう一度彼を見上げてきた。
「旦那さんはあたしに構ってもらいたいの?」
「そうだよ」
「そのわりにあなた、あたしを放置して本ばっかり読んでいたけど」
「さっきまではね、奥さん」
「……前々から疑惑を持っていたけどね、旦那さん。あなた自分は本に夢中になって、あたしをしょっちゅう放置するくせに、自分が構って欲しくなったときにあたしに放っておかれるのは嫌なのね?」
「嫌だねぇ」
「あー! と、とうとう認めたわね! なんて自分勝手な男なの」
白猫は、てしてしと前足で彼の足を叩いた。
「くすぐったいよ、ルイーゼ」
笑いながら、彼は白猫を抱き上げた。
「抱っこごときで許すと思ったら大間違いよ、アレイスター! のほほーんとした善人面してあなたときたら、実はけっこう我がままで自分勝手よね! あと繊細そうにみえて考え方も片づけ方も大雑把だし、神経図太いし」
「なにを今さら……。そういえば、友人たちにも似たようなことでよく苦情を言われていたなぁ」
「言いたくもなるわよ。あなたほとんど詐欺よ。外見詐欺」
「他人が勝手に勘違いしたことなんて、私の知ったことじゃないよ」
「そういうことをニコニコしながら言われると、あなたをよく知らない人間は聞き間違いじゃないかと自分を疑うハメになるのよ。私も大昔は何度かそう思ったわ。ところで背中を撫で撫でされたくらいじゃ、あたしの機嫌は直らないわよ!」
「そうかい?」
「そうよ」
「ところで買い物のあとは、丘の上の店で夕陽を眺めながらお茶でも飲もうか、奥さん。きっと今日の夕陽は綺麗だよ」
「……む」
「家に帰ったら、きみの好きなオムレツを作ろう。食後にはとっておきのお茶を淹れて、可愛い孫のために買った甘いお菓子を三人で食べる。これでどうかね」
「むむ」
「ああ、それと、今日は寝る前に本を読むのはやめるよ。かわりにきみのための宝石箱を作る」
「えっ」
「さて、それで奥さんの機嫌は直ると思うかね」
「うむ。ちゃんと実行できたら直ると思うわ。旦那さん」
白猫はにまりと笑った。
そして、にゃふーんと鼻歌を歌い始めた。
どうやらすでに機嫌は直ったようだと、彼は微笑みながら、ゆっくりと町に向かった。
おしまい