その事実を知った時、公爵家の大半の人々は同じ反応だった。
まずお互いに顔を見合わせて「まさかそんな」と笑いあい、次にそれが本当のことだと分かると、驚いて口をあんぐりと開けた。
いや、だって。あの方だって人間なんだから、そういうことも起こりうるとわかってはいたけれど。
「……旦那さまって、寝込むことあるんだ」
誰かがぽつりと言った。
この公爵家の若き旦那さまのイメージは、たいてい元気に使用人をいびっているか、あるいは奥さまにめろめろしているかのどちらかなので、弱っている姿など想像すらできなかった。
とはいえ、驚いている場合ではない。使用人たちはさっさと医者の手配をして、看病にとりかかった。
一方、エリスは誰よりも大慌てして涙目でおろおろ廊下と部屋を無意味に行ったり来たりしていた。
ヘルムートが寝込んでいる姿を見るのは、子供の時以来だ。そのときは風邪をこじらせたとかで、今と同じようにベッドに横たわり、ひどく苦しげに眉根を寄せていた覚えがある。
あのときも自分は彼のために何もできなかった。今もただうろたえて、医者の来るのを待っているだけ。
「奥さま、ご心配なさらずとも、どうせすぐに回復なさいますよ。旦那さまは丈夫なのと見目麗しいことと無駄に頭が良いことしか取り柄がないのですから」
使用人レティーは、褒めているのか貶しているのかわからない、なんともいえない言葉でエリスをなぐさめてくれ、長椅子までそっと追いやった。
「レティー、で、でも」
「ああ、うかつにベッドに近づかれませんよう。おそらく風邪でしょうから、奥さまにうつってしまいます」
「え……っ」
長椅子からヘルムートの眠るベッドに近づこうとしていたエリスは、レティーに諌められて足を止めた。
レティーは常の無表情に、わずかな微笑を浮かべた。
「奥さまがお風邪をお召しになったら、旦那さまの倍は寝込むことになるでしょう。そうなれば旦那さまはご自分のせいだと思われて、きっと悲しまれます」
そうまで言われては、大人しく長椅子に戻るしかなかった。
「本当は別室にいていただきたいのですが、それは……」
「い、いっしょのお部屋がいいの」
エリスはレティーの言葉を遮ると、必死の表情で訴えた。
「……でしょうから、せめてベッドから離れた場所にいてくださいましね」
「うん」
こくんと頷いて、エリスはその場からヘルムートの眠るベッドを見つめた。
心配で心配で仕方ない。
ふと気づく。
彼も自分が寝込むたび、こんな風に身を切られるような思いでいるのだろうか。できることなら代わってあげたいと、考えたりするのだろうか……。
やがて医者がやってきて、ヘルムートはレティーの言った通り風邪だと診断された。
その場にいた使用人すべてが部屋から出て行った。
ヘルムートが目を覚まして、「用があったら呼ぶから、いなくていい」と言ったためだ。 「――エリス?」
「はい……っ」
「なんか、遠いね」
「あ、う、えと」
本当は傍についていたいけれど、そうはできなくて。
エリスは意味もなく立ちあがった。
「ごめんなさい……」
「なんであやまってるの」
かすれた声が、苦笑をにじませていた。
「うつったらいけないからね。分かってるよ。……はやく治して、きみに触れたいな」
「ヘルムートさま……」
だけど。
エリスは思う。
だけど、自分が寝込んでいる時、彼は傍にいて看病してくれる。つらいときは手を握っていてくれる。いつだって、さみしくないように。
「エリス、だめだよ」
「いいんです」
エリスはヘルムートの傍まで行くと、ベッドの横に座り込んで、彼の手をぎゅっと握りしめた。
「だって、ヘルムートさまはいつもこうしてくれるもの……わたしも、同じようにしたいんです」
「エリス」
「早くよくなって、ヘルムートさま……」
「きみは、ほんとにもう……」
仕方のない子だね、と言って、ヘルムートは身じろぎすると、空いているほうの手でエリスの頬をひと撫でした。
「ヘルムートさまの手、熱いです」
「そりゃあ、熱があるからね……」
いつもより覇気のない声音で返し、ヘルムートは目を閉じた。
「また少し眠るよ。手、疲れたら離していいから」
「おやすみなさい、ヘルムートさま」
「うん……」
やがて寝息が聴こえ始めると、エリスは彼の額に置いてある布を冷やし直そうと思い立つ。起こさないようにそっと手を離すと、傍のテーブルの上に置かれた盥の水に、その布を浸す。
そしてぎゅっとしぼる。
ぎゅっと……。
…………。
「あ、あれ……?」
なぜだろうか。ちゃんとしぼれているように思えない。
「ん……っ」
これでもかというほど力を込めてみたけれど、ちょろりとしか水が落ちて来なくて、まだまだ布には水分が残っている。
たしか前にもこんなことがあった。そのときはレスターが代わりにしぼってくれて。
(で、でも今レスターを呼ぶわけには)
そもそもこんなことで呼びつけたら、むこう半年は口を聞いてくれなくなりそうである。それはいやだ。
エリスは悪戦苦闘しながら、なんとか布をしぼり終え、それをヘルムートの額の上に戻した。
びちょり。
嫌な音がした。
眠るヘルムートの頬に水滴が落ちていく。
「あ、あ……」
慌ててエリスは自らのドレスの袖でそれを拭いた。ふう、と息をはく。
「…………なに遊んでるの、きみは」
「えっ、えと、その」
ふいに目を覚ましたヘルムートに、呆れたように言われてしまった。
「遊んでたわけじゃ、なくて……」
「つめたい……」
ヘルムートはのろのろと起き上がると、布を手にして盥のあるテーブルに向かった。その際、一瞬足がふらついたが、布をしぼる手つきはしっかりしていた。大量の水滴が盥の中に落ちる。
「非力にもほどがあるよね」
「ごめんなさい……」
相変わらず布をしぼることも満足にできない自分が情けなくて、エリスはしょんぼりと俯いた。
けれど、次の瞬間。
「きゃ……っ」
エリスはヘルムートに抱きあげられて、ベッドの上に乗せられていた。
「え、あの、ヘルムートさま……?」
ヘルムートはふう、と息を吐き、けだるげに前髪をかきあげた。
「……きみにうろちょろされてると、気になって仕方なくて、まともに寝られない」
がぁん、とエリスはショックを受けた。
しかし、それもその通りなので涙目になって言う。
「じゃ、じゃあ、お部屋から出ます……」
「ダメ」
「えっ……」
「きみみたいな子は捕獲しておかないと。次はなにするかわからないし」
「え、え……?」
どういう意味かわかりかねて、エリスが戸惑っていると。
ヘルムートはのそのそとベッドに横になり、そのままエリスを腕の中に閉じ込めた。ぎう、と抱きしめられる。
「へ、ヘルムートさま」
エリスは真っ赤になって慌てるが、彼は「うるさいもうだまって寝るから」とくぐもった声で言い、足まで絡ませてきた。
恥ずかしくて心臓がどうにかなりそうだった。
いや、それ以上のこともされているのだけれど、なかなかこういう状況には慣れなくて、エリスはいつも一人でうろたえているのだ。
(ど、どうしよう)
そのとき、「失礼します」と声がして、止める間もなく部屋の中にレティーが入って来た。
「…………」
「……あ、あの、ちがうのこれは」
「…………どうぞお風邪をうつされませんように」
真っ赤になっているエリスとは対称に、レティーは顔色一つ変えずにそう言って、用を済ませるとさっさと出て行った。
エリスはなんだかいたたまれなくて、「ヘルムートさまのばか……っ」と思わず口走っていた。
「……そんな暴言を病人に吐く悪い子には、あとでお仕置きが必要だね」
「え?」
てっきりもう眠ったと思っていたヘルムートが、瞼を閉じたまま不穏なことをつぶやいた。
「あ、あの、ヘルムートさま?」
「おやすみ」
「おやすみなさい……?」
お仕置きって一体何をされるのだろう。
不安になるエリスをよそに、今度こそヘルムートは眠ったようだった。
二日後。
「エリス、水飲む?」
「はい……」
ヘルムートのやさしい声に、エリスはちいさく返事をした。
やはりというかなんというか、ばっちり風邪をうつされてしまい、エリスはベッドの中で横になっている。
「今度からは僕が病気になっても、エリスは看病なんかしなくていいからね」
「でも……」
「あれ、どういうことになるかまだわからない?」
「う……」
それはもう身にしみてわかってしまった。
病気中の彼はなんだかいつもより意地悪度が増していて、あのあと少し良くなったからと宣言通りお仕置きをされて――――。
思い出すとそれだけで赤面してしまう。
彼はそのことでレティーに怒られていたが、けろりとしている。
「でもまぁ、僕も熱でどうかしてた。きみに風邪うつすような真似するなんて」
「ヘルムートさま……」
「理性がきかなくてさ。こう、つい目の前に餌があると本能的に食べちゃうよね、ああいうときは」
「ヘルムートさま……?」
反省している声音で、なにかとんでもないことを言われた気がする。
エリスは今度からは看病をやめようと思った。
わりと真剣に。
おわり