ああ、なんて悲しい声だろう。
慰めてあげたい。
でも、わたしには声がない。
あなたたちに触れるための手もない。
*
わたしはずっとある家の、年若い夫妻を眺めて暮らしていた。
仲良くごはんを食べたり、散歩したり、笑い合っている姿をただ見ていた。
彼らに、というか、人間に興味があったのだ。
そんなある日、夫妻に子供が誕生した。
なんて小さいの。
それにあの手足の可愛らしいこと。
夫妻は子供を見つめ、幸せそうにキスを交わした。
夏が来た。
わたしが花を咲かせる季節だ。
お日様をたくさん浴びて、今年も綺麗な花を咲かせた。
庭に出て、お茶を楽しんでいた夫妻がわたしを見上げて言った。
「今年も綺麗に花を咲かせてくれてありがとう」
いいえ。
どういたしまして。
赤ん坊もわたしを見てきゃっきゃと笑っていた。
――あら、あなたわたしが見えるのね?
そうなんだ。
じゃあ、大きくなって言葉を覚えたら、わたしに話しかけてね。わたし、とても退屈なの。
季節は秋になった。
わたしの見頃は終わってしまった。
「また来年も楽しみにしているからね」
夫妻はニコニコしながら、わたしに言った。
ええ。きっと来年も綺麗に花を咲かせるわ。
わたしはいつのまにか、この夫妻を好きになっていた。
ニ年後の冬のことだった。
女の子が二階のテラスから落ちて、亡くなってしまった。
夫妻の子供――あの小さな赤ん坊だった子だ。
声も上げずに落っこちた。
誰もまだ気づいていない。
わたし以外は。
ああ、どうしてわたしには声も手足もないのか。
なすすべもなく見ているしかできなかった。
やがて使用人が来て、女の子が倒れているのを見つけた。
夫妻もすぐに駆けつける。
嘆く夫妻に、わたしまで悲しくなった。
仲間が言う。
「お前は精霊だ。人ではない。なのに、まるで人のように一緒に泣くのかね」
泣いている?
わたしが?
――ええそうね。心が泣いているわ。
わたしは光となって、ふらふらと女の子の部屋に入り込んでみた。
女の子の亡きがらはすでに土の中だ。
夫妻は空のベッドの傍で、肩を寄せ合って静かに泣いている。
わたしは慰める言葉を発することもできない。
夫妻をただ見つめていた。
どれくらい時間が経っただろう。
わたしはふと、ベッドの傍に飾ってある絵を見つけた。三つ編みの女の子が描かれている。小さな子供が描いたような絵だ。似てはいないけれど、たぶん亡くなった女の子の絵なのだろう。彼女もいつも三つ編みをしていたから。
見つめていると、なんだか惹きこまれた。
というか、吸い込まれる。
――――え?
わたしの思考は途切れた。
そして次に目覚めた時、変なことが起きていた。
夫妻がわたしに抱きついていたのだ。
ど、どういうこと?
なぜ彼らは、光でしかないわたしに触れることができるのだろう。
混乱しながら、手を動かした。
……手?
なぜわたしに手があるの?
茫然としていると、目の前にあった額縁から、ひらりと白紙が舞い落ちた。さっきまでは女の子の絵が描いてあったはずなのに。
「奇跡だ……神様、ありがとうございます」
夫妻が泣きながら言った。
わたしの顔をのぞきこむと、泣き顔のまま微笑んだ。
「ああ、わたしたちのコレット。よく帰って来てくれたね」
わたしはなぜか、木の精から人間の女の子――亡くなったあの子の姿になっていたのだった。
夫妻はわたしを娘の生まれ変わりだと言った。
んん、違うと思うけど。
そうしたら普通、赤ん坊になっているはずだから。
わたしの姿はどう見ても、亡くなった子とそっくり同じ年頃だ。
夫妻は嬉しそうにしていて、あまりそのあたりのことは深く考えないようだった。わたしのことを亡くなった子 ――コレットの双子の妹だと周囲には告げた。
亡くなった子と同じ名前の妹なんて、ちょっとおかしい。
使用人や親せき、近所の人々は突然あらわれたわたしを、不気味に思ったようだ。
口々にわたしを追い出すように言ったり、夫妻から離れて行った。
当時は社交界でも噂になった。
人によっては「亡き娘の遣わした身代わりの女の子」という美談になったり、「気味の悪い怪談」になったりした。
すぐに別の噂が現れては消えていく世界なので、それほど長いあいだ噂されることはなかったけれど。
それでも今でも知っている人はいる。
「あれが例の噂の……」
「どこからか現われたという気味の悪い娘か」
こそこそ言われるのには慣れた。
わたしはいつでも背筋を伸ばして堂々と振る舞った。
そうしたら、友人もできた。初めは興味本位で声をかけて来たらしいけど、話しているうちに親しくなった。全員男の子だ。
残念ながら、女の子たちはわたしのことを不気味がって近寄って来ない。そのうえ男の子の友人ばかりと居るので、やっかまれてもいる。
まぁ、いいや。
女の子の友人なら、ひとりだけいるから。
「コレット、いらっしゃい」
エリスはベッドに横になったまま、にこりと笑った。
わたしは彼女がまた熱を出して寝込んでいると聞いて、お見舞いにきたのだ。
「はい、これ。オレンジ」
「わぁ、ありがとう」
エリスはわたしの噂を知らない。
まだ一度も公の場に出たことがなく、世間にうといから。
エリスの両親は知っているみたいだけど、そのことで何かを言われたことはない。いつも娘と仲良くしてくれてありがとう、とは言われたけれど。
わたしがエリスに会ったのは、エリスの両親に招かれたことがきっかけだった。彼らはよく近所の(といっても距離はあるが)子供たちを家に呼んで、娘と遊ばせているのだ。
エリスと対面して、わたしはすぐに気がついた。
あの不思議な女の子の絵と、エリスのまとう気配とが同じであることに。
それとなく話を聞いてみると、エリスは以前に『コレット』の絵を描いたことがあると
言った。亡くなった『コレット』も、エリスの家に遊びに来たことがあったらしい。
わたしはエリスに感謝した。
あの夫妻を悲しみから救うために、わたしがこの姿になれたのは、彼女のおかげだから。
本人は自分の力に何も気づいていないみたいだったけど。
わたしはぽやぽやしたエリスのことを気に入った。
何度か遊びに行くうちに友達になって、大好きになった。
時が経つにつれ、わたしは中身も人間に近づいていった。
でも、精霊だったときのなごりは抜けない。
気配を自在に消せるのだ。忍び込もうと思えば、厳重な警備で有名な王立図書館にだって真夜中に入り込める。
ときどき貸し出しカードに記入するのが面倒なので、無断で持ち出したりもする。むろん、後でこっそり返すけれど。
ああ、それに影が薄い。
普通の人間よりもずっと薄いのだ。
これはちょっと隠せない。気づいた人には変な顔をされる。「やっぱりあの不気味な噂は本当なのか」とか言われたりもする。まぁいいけれど。
そんな風に気楽に過ごしていたある日、わたしは魔法使いに会った。
黒髪に琥珀の瞳の、子供の魔法使い。
エリスの家からの帰り道だった。
「お前、あいつの欠片を使ってるな?」
開口一番に言われた。
わたしは後ずさった。
魔法使いの上着が風も吹いていないのに、ふわりと揺れた。
彼の元に魔力が集まる。
「お前はあいつに害をなす存在だ」
「わたしそんなことしないわ!」
「うるさい。ジイさんに『返し』てもらうから、大人しく捕まれ」
わたしは走って逃げた。
怖かった。
でもあっさり魔法の光に捕まった。
そのまま魔法使いの家に連れて行かれ、そこで老魔法使いに会った。
「なんとまぁ、ニコの他にもいたのか……」
「お前、おれと同じか? 元はなんだ?」
薄いピンクのうさぎのぬいぐるみが、そう話しかけて来た。自分と同じ気配がした。ああ、この子も『何か』とエリスの命の欠片が混ざっているのか。
「わたしは木の精だったの。――わたし、消されるの?」
そんなことになれば、あの夫妻は二度も娘を失うことになる。
「お願い、消さないで」
「…………」
老魔法使いは少し考え込んでいた。
「ジイさん、考えるまでもねぇだろ。さっさと消せよ。お姫に害をなしたらどうする」
黒髪の子供魔法使いは容赦がなかった。
わたしたちは睨み合った。
「わたし、エリスに何かしたりしない。あの子には感謝しているもの」
「おひいさまを知っているのかね?」
老魔法使いが訊いたので、わたしは頷いた。
「一番の友達よ」
「……それならば、仕方ないね」
「おいジジイ!」
「おじいちゃんと言いなさい」
老魔法使いは穏やかに微笑んだ。
「この先もずっとおひいさまの友達でいてくれるかね?」
「当然だわ」
彼は満足げに頷いた。
「ならば、『返し』を行うのはよそう」
「ジジイ、正気か。こいつはニコみたいに赤ん坊の魂じゃないんだぜ。意思の明確な精霊が、お姫の命の欠片を使って動いているんだぞ。いずれ命を奪いとるような真似をするかもしれないだろ」
「わたしそんなことしないわ! ――いいわよ。もし万が一そんなことをしそうになったら、容赦なく消せば?」
「その言葉忘れるなよ」
わたしたちは再び睨み合った。
以来、レスター・オルスコットはわたしの天敵だ。
*
「コレット、ダンス上手くなったよね」
「そう?」
音楽に合わせて、くるくる回る。
わたしはダンスが好きだ。
相手をしてくれている友人が笑いながら言う。
「昔はすごく下手だったじゃないか」
「そうだっけ」
それはほら、元々わたし手足がなかったから、人間になってからしばらくの間は動きが鈍かったのよね。もちろんダンスなんて踊ったこともなかったし。
「あー疲れちゃった。ちょっと休む」
「じゃあ、飲み物をもらってくるよ」
「うん、ありがとう」
わたしは椅子に座って、友人を待つことにした。
ふと視線を感じる。
離れたところにいる女の子たちが、わたしを見てヒソヒソと何かを話していた。どうせろくでもないことだろう。
わたしはべえ、と舌を出してやった。
女の子たちは顔を真っ赤にして、憤慨した様子でまたコソコソ話していた。
「送って行こうか?」
「いいの。もうすぐしたら、うちの馬車が迎えに来るから」
「待たせておけばよかったのに」
「いいの、いいの」
わたしは友人に手を振った。
さて、帰るか。
本当は迎えなど頼んでいない。
わたしは一人歩いて帰るのだ。男爵令嬢としての外聞があるから、こっそりとだけど。
夜空を眺めながら、のんびり歩くのは気持ちが良い。
しばらく歩いたときだった。
道の向こうから一人の男が歩いてきた。
(げっ)
レスター・オルスコットだ。
仕事帰りだろうか。
「こんばんは」
一応あいさつすると、彼はちらりとこちらを一瞥しただけですれ違った。無視ですか、ああそうですか。あいかわらず腹の立つ男ね!
「エリスにはやさしいくせに」
「庇護対象だから当然だろう」
答えなど返って来ないと思っていたのに。
振り返ると、彼は背を向けて歩いていた。
「たまには……」
わたしは口を開いた。
「たまには、他の女の子にもやさしくしないとモテないわよ」
なんだそれ。
自分で言っておきながら、つまらないことを言ったと思った。
この魔法使いがそんなことを気にしない性格であることなど、知っているのに。
「ご忠告ドウモ」
案の定、わずかに振り向いた彼に、馬鹿にしたように鼻で笑われた。
腹が立ったので、本日二度目。
べえーっと舌を出した。
たぶん一生、この魔法使いとは分かりあえないわ。
彼の祖父、老魔法使いは「レスターとも仲良くしておくれ」と言っていたけれど、その頼みはいつまで経ってもきけそうにない。
わたしは彼に背を向けると、再び歩き出した。
お父様とお母様が待っている、我が家に向かって。
おわり