知らんぷりの失敗(1)

「どうしてお前は、俺じゃなくて響を頼るんだろうねぇ」
 保護者の家を訪ねるのに、響に同行してもらった日の夜のことである。
 そんなことは分かりきっているだろう、と月加は無視を決め込んだ。
 対する許婚・七瀬は得体の知れない微笑を浮かべながら、さらに言う。
「そういうことばかりしていると、俺がかわいそうだと思わないの」
「思いません。ちっとも」
 冷たく言い放つと、七瀬は笑みを深める。ただし、その一重の鋭い眼はちっとも笑ってなどいない。珍しく本気で機嫌が悪いようだ。そんなに許婚として頼られたいのか? と月加は疑問に思う。それか、お気に入りのおもちゃを横取りされた感覚なのだろうか。
「可愛くない子だね」
 許婚が言いながら、距離をつめてくる。廊下などで出くわすものではない。背後は行き止まりだ。
 じりじり後ずさっても逃げ道などなく、やがて背中が壁につく。
 まるで蛇に睨まれた蛙。
 これは危険だと嫌な汗が出て来るのを感じた。
 七瀬の手が壁につく。月加の顔の真横。右は封じられた。最終手段、縁側から裸足で逃げる方法はとれなくなった。
「わたしが可愛くないのは昔からです。知ってるでしょう。今さらそんなことで怒る気ですか」
 睨みつけながら言うと、七瀬はますますにっこり。
「お前は可愛げがないところが可愛いよ」
 と、わけの分からないことを言って、左手でするりと頬を撫でてくる。
 ぎゃあ、という悲鳴は呑み込んだ。嫌がったら相手が喜ぶ気がしたから。この許婚はけっこう変態だ。
 しかし確実に鳥肌は立った。
 身長差があるせいで、月加は七瀬の影に覆われている。辺りは静かだ。広い庭のおかげで敷地外からの騒音は聞こえてこない。それでなくともこの辺りは昼夜問わず車通りも人通りも少ない。聞こえるのは何かの虫の声と風の音だけ。家の中も馬鹿みたいに広いので、使用人たちの気配すら感じられない。月加はなんだかこの許婚と孤島に置き去りにされたかのような嫌な気分になる。だれか助けてくれと切実に思った瞬間。
 こめかみに口づけが降る。
「……や」
 やめろバカ変態、という暴言はやさしく首筋を撫でる指先に気を取られて、言葉にできなかった。
 今度は額に口づけられる。柔らかな体温が、自分の熱に触れる。顔どころかきっと耳まで真っ赤に違いない。もう信じられないこのド変人、どうしてくれようと考えるが今どうにかされているのは自分のほうである。べちんと七瀬の頬を叩いた。あんまり効果はない。なんで本気で叩けないのか自分で自分が分からない。悔しい。
 月加は涙のにじんだ瞳で七瀬を見上げる。
「アホ、ばか、変態」
「語彙が少ないな」
「どえす」
「自覚はある」
 あるだけで性格改善などする気もない相手は、ものすごく嬉しそうに月加を見下ろしていた。
「今のお前は最高に可愛いよ」
「もう消えてくださいホント」
 心の底からそう言った。
 七瀬はまったくダメージなど受けていない様子で、「馬鹿だね」とあやすように頭を撫でてくる。「俺が本当にいなくなったら、お前嫌だろうに」
 相変わらずとんだ思い上がりだ。月加は鼻で笑う。
「別にかまいません。むしろせいせいしますね」
「じゃあ試してみようか」
「え?」
 七瀬はあっさり月加の拘束を解くと、謎の一言を残したまま、何事もなかったかのように立ち去ってしまった。
「試すってなによ」
 首を傾げながら額をごしごし袖口で擦る。
 その疑問に答えてくれる人はいなかった。

   * * *

 翌朝、朝食の席に七瀬はいなかった。
「?」
 いつもは自分より先に母屋の居間にいて、定位置に座っているのだが。
 おまけに皆、何の異変もないように普段どおりに食事を始めた。月加は戸惑いながら箸をとる。この家は基本的に全員そろってから食べ始めるのに。
「……七瀬さんは?」
 しばらくして誰にともなく問うと、七瀬の両親はきょとんとした顔をし、従兄弟の響は聞こえなかったのか味噌汁を飲むことに集中していて、祖父は「誰のことを言っとるんじゃ」と訝しげに訊き返してきた。
「だれって」
 そっちこそ何をとぼけているのだ。じいさんボケたのか?と思っていると、「ごちそうさま」と響が立ち上がる。やけに早いが、ちゃんと完食していた。
「もう行くのか?」
 七瀬の父親が訊ねた。
「今日委員の仕事があるから」
「そうか、実は僕も早く出ないといけない用事があってな。途中まで車に乗っていくか?」
「あー、じゃあ」
「ではお先に」
 と七瀬の父親は言い残し、響と共に居間から出て行った。
 月加は首をかしげた。響が委員会に所属しているなどという話は初耳である。ああいう面倒な役目は他人にさりげなく押しつけるタイプなのだが。
 それに心なしか七瀬の父親の口調が棒読みだったような。
 何か変だぞと思いながら、月加は出汁巻き卵を口に入れる。うま。もぐもぐ口を動かしていると、七瀬の母親が話しかけてきた。
「ねえ、今日の夕食、みんなで外食しましょうか」
 それは珍しい提案だった。
 しかし年寄りは「わしは行かんぞ」と偏屈ぶりを発揮する。
「なんでよぅお義父さん、行きましょうよ〜。うち和食中心で飽きちゃうし。たまにはイタリアンなんて」
「わしにかまわずお前たち四人で行って来い。ああ、この年寄りだけを家に置き去りにしてな。わしはひとり淋しく夕食をとるとしよう」
 言うことが七瀬に似ている。いや、七瀬がこの祖父に似ているのだ。
 と、そこまで思って月加は奇妙な間違いに気づいた。
「おじいさま、人数がおかしいですけど」
 七瀬に、その両親、響、それに自分を入れてみると外食組は五人である。家族だけで行くというのなら、自分は七瀬の祖父とお留守番ということになるが、この年寄りは「ひとり」で家に残ると言った。
「おかしくはないわよ?」
 けれど、七瀬の母親は微笑みながら否定した。
「べつに間違っとらんぞ」
 祖父も言う。
 ならばこういうことかと月加は再び口を開いた。
「じゃあ、わたしその辺のえーと、牛丼屋さんに行ってきます」
 そっちは家族水入らずでイタリアン(祖父除く)、こっちはいい機会だから、普段行けないところを選んでみた。テレビで知ってから、どんなところか一度入ってみたかったのだ。とても人気らしい。せっかくだから、すでに行ったことのありそうな世話係を誘ってみよう。
 月加が一瞬のうちに色々考えていると、「そうじゃないでしょ!! ていうか何で牛丼!」となぜかご立腹の様子で七瀬の母親が叫んだ。牛丼はいけないのだろうか。
「行くのはわたしと一哉君と響と月加ちゃん、ひとり淋しく居残りはこのじいさん!」
 どさくさまぎれに義父を「じいさん」呼ばわりしている。ちなみに一哉君は七瀬の父親の名前である。
 それはともかく。
「じゃあ七瀬さんは?」
 ぎゅうどん。ちょっとがっかりしながら訊けば、また不思議そうな反応が返ってくる。もう何なのだ、と月加は思う。
 さっきから「誰それ」みたいな顔をされる。自分たちの変わり者の息子と孫ではないか。
「月加ちゃん、本当にそれ、誰のことを言っているの?」
「………………」
「大丈夫か、お前。寝ぼけとんのか」
「………………起きてます」
 月加はようやくすべてを察した。
 これだから変わり者だと言うのだ、あの許婚は。
 昨日の言葉が蘇る。

『俺が本当にいなくなったら、お前嫌だろうに』
『じゃあ試してみようか』

 だからって普通、家族まで巻き込んだ茶番劇を行うか。
 きっとノリノリで参加したに違いない目の前の二人は置いておくとして、響と七瀬の父親は逃げたのだ。そういえば響は一度もこちらを見なかった、あのやろうと月加は湯飲みを握り締める。ぜったい委員会になんか入っていない。
「わかりました」
 月加は言った。
 あちらが本気なら、こちらも本気でこの茶番に付き合うまで。「ごめんなさい」なんてきっとお互い死んでも言わないが、「もう止めよう」とは言うかもしれない。
 だから、そう言ったほうが負けだ。
 何かがメラメラと燃えている。月加の中の負けず嫌いが「やあ」と顔を出す。いつか許婚を「ぎゃふん」と言わせたいとつねづね思ってきたが、良い機会だ。あっちが折れるまで知らぬふりを貫き通してやろうと決めた。

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