誰も持たない魔法

「旦那さま」
「なに」
「どういう手をお使いになったのかは存じませんが、ああいう心身ともに弱っちい方を騙したり脅したりして無理やり結婚なさるのはどうかと思います」
「…………ふざけてんの、お前」
 額に青筋を浮かべて低い声で言った旦那さまに対し、女中のレティーは愛想の欠片もない無表情で「真面目に申し上げています」と返しながら、熱い紅茶をカップに注いだ。
 本来、レティーはこの旦那さまの身の回りのお世話をする係ではないのだが、こうして時どき呼びつけられては話し相手になり、ついでにお茶の用意もしたりする。
「今日のお菓子はイチジクのタルトですよ」
 レティーはそう言いながら、タルトの乗ったお皿と紅茶を、脚の低いテーブルの上に置いた。
 長椅子に座って気だるそうにしていた旦那さまは、目の前に置かれたそれらを不機嫌そうな表情で一瞥した後、レティーを睨みつけて言った。
「なんでわざわざ主の嫌いなものを出すんだ?ていうか、朝食にも僕の嫌いなものが出てた」
「ああ、ほうれん草のキッシュですね。料理長がうっかり旦那さまのお嫌いなものを忘れてしまったのでしょう」
「昼食も」
「ニンジン入りシチューくらい食べて下さい。子供じゃあるまいし」
「あれはシチューじゃない。表面が橙色で埋め尽くされて、ほとんどニンジンだった。あんなのニンジン入りシチューじゃなくてシチュー味のニンジンだろう。他の具なんて入ってなかったし」
「給仕係が偶然そんなふうに注いでしまったのでしょう」
 レティーはしらっと答えたが、旦那さまは騙されなかった。
「お前たちは僕に悪意を持っている」
「か弱い女の子を無理やり妻にするような方に好意など持てません」
「…………だからふざけてんの、お前」
「だから真面目に申し上げています」
 旦那さまは無駄に整った天使のような顔をゆがめ(それでも美しさに変わりがないので、レティーはちょっと感心した)、先ほどよりもっと低い声で言った。どこか拗ねているような口調で。
「無理やりになんてするわけないだろ」
「あら」
「なにが『あら』」
「悪魔の化身ともあろう方が」
「誰が悪魔の化身だ。お前今日はいつにも増して口が過ぎるぞ」
「では、騙したり脅したりして結婚したわけでは?」
 そう思ったのはレティーだけではない。使用人仲間のほとんどが、『奥さまはきっと旦那さまに騙されるか脅されるかして結婚したに違いない』、『きっと結婚式後に本性を見てしまった奥さまは、悪魔そのものの旦那さまにオドオドびくびくしているのだろう』、『悪魔だということは分かっていたが、まさかあんな、ちんまりして病弱で儚げな雰囲気の女の子を無理やりお嫁さんにするなんて思わなかった。酷すぎる』と噂している。
 それで皆の同情は奥さまに傾き、近づいただけで怯えられている旦那さまを気の毒に、と思うような人間は一人もいない。
 それどころか、旦那さまに反省してもらおうと、嫌いなものを食事に出したり、チクチク嫌味を言うという地味な活動が始まったのである。
「長いあいだご苦労だった。お前たち今日限りで辞めてもいいよ」
「全員の次の勤め先をきちんと決めて下さるなら」
 可愛げなく答えたレティーに対し、旦那さまは舌打ちした。育ちが良いくせに、まったく柄の悪い人である。
「なら……」
 ――――なぜ奥さまは、あなたに対して怯えているかのような態度をとっているのですか。
 レティーはそう続けようとしたけれど、考えてみれば、そんなことは一介の使用人である自分が立ち入るようなことではなかった。他の使用人仲間たちが、皆この新婚夫婦の微妙な距離を心配しているので、つい自分も気にしてしまったけれど。
「なに」
 言いかけて止めたレティーに、旦那さまが相変わらずの不機嫌面で訊いた。
 その宝石のように綺麗なアメジストの瞳から、いつものようにわずかばかり視線を逸らし、レティーは答える。
「いいえ。なんでも」
「言いかけて止めるなよ」
「止めておきます」
 レティーはきっぱりと言い切った。
 一度踏み込んでしまえば、もっと踏み込んでしまう。そんな気がした。それは危ない。だから何も言わない。
(あなたは幸せではないのですか)
 決して誰のものにもならなかった悪魔のような天使と、その心を奪ったはずの人は、毎日毎日どちらも憂鬱そうな顔をしているから、これもまた、つい訊いてしまいたくなる。
 使用人仲間たちも当初は旦那さまの結婚をそりゃあ喜んで――いや、面白がっていたのだが、今ではただただ心配している。いったい何があってこんな状態になったのか、それは誰にも分からない。たぶん、旦那さまにも分かっていない。
 彼は長椅子の背に肘を置き、窓の外を見ながら言った。
「たぶん、なにか、お前たちが考えているように……エリスの様子がおかしい原因は、僕にあるんだろう。でも、何がいけなかったのか分からないし、どうしていいのかも分からない」
 それはレティーに向けて、というよりは独り言のようだった。
(らしくもない)
 この旦那さまが好きな人に対してどう接していいのか分からない、などという人間らしいことで悩んでいるのを見るにつけ、レティーの中にはどういうわけか苛立たしさが込み上げてくる。
 だから、つい口に出た。
「何しょんぼりしてるんですか、気持ち悪い。いつもは自分が悪くても平然としているくせに。あのデカイ態度はどこへ行ったんですか」
「……余計なお世話だ」
 旦那さまはそっぽを向いたまま言った。
 それは確かにその通りだ。
(なら、あなたに無関心でいられるように、さっさと幸せになって下さい)
 レティーは心の中だけで反論した。
 自分だけではない。誰も彼もが、お屋敷中の人々がこの天使もどきの恋の行方を気にしている。
 この人は子供の頃から意地が悪くて捻くれていて、気に食わない人間への所業といったら悪魔も真っ青になるほどで、本性を知っていれば好感なんて抱けるはずもないのだが、どういうわけかそれでも人を惹きつけるものを持っている。それは類稀な容姿ではなくて、もっと内側の――――。
 本当は、もう誰もがうすうす気づいている。
 旦那さまが単なる悪ふざけや意地悪で、奥さまを騙すか脅すかして結婚したわけではないことを。ちょっと気になるから手に入れてみようか、なんて軽い気持ちで結婚したわけでもないことも。
(恋だの愛だの、柄じゃないのに)
 人並みに恋わずらいまでして。
 ため息なんかついて悩んで、相手の顔色を窺って、あれこれ気に入られるように工夫したあげく上手くいかなくて落ち込んだりして。
 全然らしくないことに、他人に翻弄されている。
 本来、この天使は一人で高いところにいるのが似合うのに。
 誰にも手の届かないところに。
(でも)
 自分から落っこちてきてしまった。
 一人の女の子に恋をして。
 好かれようと一生懸命になっている。
 端から見て、とても不器用に恋している。
「レティー……お前なんで笑ってるわけ。人が悩んでるときに」
「え?」
 笑ってましたか、と自分の口元を手で触ってみる。
「笑ってたよ。珍しく。こんなときに」
 怒っているような口調で、旦那さまは言った。
「薄情だな」
「すみません」
 一応謝りながらも、レティーの口元は笑みを刻む。
(だって、なんだか)
 おかしいのだ。
 悪魔なんて呼ばれているような人が誰かに恋していることも、その相手に好かれようとあれこれ努力していることも。
 なんだかおかしくて、気の毒だが微笑ましくて、つい笑ってしまった。
 たぶん、この意地が悪くて捻くれている悪魔のような主を、使用人仲間たちの誰も嫌いになれないのは、つい惹きつけられてしまうのは、こういう意外に可愛い一面があることを知っているからだ。
(諦めてしまえば楽だって、分かっているんでしょうに)
 もともと苦労するのが嫌いで、一生懸命になることも嫌いなくせに。
(本当に、大好きなんですね)
 レティーは、小さな子供みたいにふてくされている横顔を見つめた。
 誰より性格が悪くて、捻くれていて、良いところより悪いところのほうが圧倒的に多い人の、たった一人のために切なげに細められるアメジストの瞳を、真正面から見ても平常心でいられる自信はない。
 手つかずのカップとお皿を、静かに彼の前から下げる。
「……食べないとは言ってないけど」
 食欲などなさそうなくせにそう言った旦那さまに、レティーは告げた。
「別のお部屋に運びますので、旦那さまも移動なさって下さい」
「なんで」
「今日はお身体の調子が良いと聞いています。午後のお茶、ご一緒されては?」
 誰と、なんて言わなくても通じた。
 とたんに旦那さまは落ち着きをなくした。
 そわそわと視線をさまよわせたかと思えば、「実はそうしようかと考えてたんだ」と呟きながら立ち上がって、レティーより先に部屋を出て行こうとする。
 けれど、扉を開ける前に彼は言った。
「……いきなり行ったら悲鳴上げられるかもしれない」
「上げられたことがおありなんですか」
 どんな夫婦だ、と内心で突っ込みながら、レティーは訊いた。
「いや、それはまだないけど」
「いずれあるみたいな言い方ですね」
「ないよ」
「ならいいですが」
 本気で恋した悪魔というのは、ちょっと意気地がないようだ。
 レティーはやれやれと呆れる。
「早くしないと、お茶の時間が終わってしまいますよ」
「だけど、あの子僕が一緒だと緊張するみたいだし……嫌じゃないかな。ほら、今日は昼食も一緒だったし……」
 それは知っている。傍に控えていて一部始終を見ていたわけではないが、聞いたところによると、相変わらず会話の少ない食卓だったそうだ。奥さまはうつむき加減で、見るからに緊張していたというし、旦那さまのほうはどう接していいのか分からない様子で、どちらもぎこちない態度だったという。
「今日はもう十分一緒にいたわけだし、午後のお茶までっていうのは、控えるべきかもしれない……」
「旦那さまはそれで満足しているわけですか」
 一日のうちの、ほんのちょっぴりを一緒に過ごしただけで。
 そう問えば、旦那さまはムッとした。
「そんなわけないだろ」
「じゃあ、行けばいいじゃないですか。奥さまに気を遣いすぎです。だいたい最近、弱気すぎやしませんか」
「別に弱気になっているわけじゃない。ただ、僕が傍にいると、あの子は怯えてしまうし……声だって、いっとき出なくなってたし……」
 自分で口にして落ち込んできたらしく、旦那さまの表情は暗くなっていく。
 いったい自分の目の前にいるのはどこの誰なんだか、と思いながら、レティーは旦那さまに言った。
「このまま一緒にいる時間がどんどん減っていって、自然と顔を見ることすら叶わなくなってもよろしいのですか?」
「よろしいわけないだろ」
 即答だった。
「なら、らしくもなくウダウダ迷ってないで行ってください。いつまでも扉の前にいられると目障りです」
「とんだ言い草だ」
「すみません」
 ぜんぜん悪いなんて思っていないが、レティーは形ばかり謝って、お茶とタルトを運ぶためにワゴンを押そうと背を向けた。
 背後で扉が開いて、パタン、と閉じる音がする。
 部屋の中に自分以外の気配がなくなってから、レティーは扉のほうに向き直り、ワゴンを押した。
 それにしても、まさかあの旦那さまが初恋に苦しむなんて、想像もしていなかった。思いやって、気遣って、遠慮して、誠意の限りをつくして奥さまに接する姿は、いつ見ても信じられない気持ちになる。
(あんな風にしおらしいと、まるで本物の天使だわ)
 でも、そうなるのは、一人の少女を想うときだけ。
 悪魔を天使に変えてしまう魔法なんて、きっと他の誰も持っていない。
 そのことを、あの奥さまはちゃんと分かっているのだろうか。
 きっとあんな悪魔を心から好きになる人はいないとは思っていたけれど、失恋したら「日頃の行いのせいですよ」と言って、鼻で笑ってやろうと思ったこともあったけれど。
 ――――でも、奇跡が起きないとは限らない。
 あの悪魔が天使に変わったように、閉じている奥さまの心も、いつか開くときがくるかもしれない。
 今のレティーはそう思う。
 扉を開くと、廊下から光が差した。
 ワゴンを押して向かうは、どうしようもない新婚夫婦のもと。
 このお茶の時間がうまくいけば、彼らは夕食も一緒にとるかもしれない。そうして少しずつ変わっていけばいい。
 いつか、誰コレと目を疑うような天使もどきの幸せいっぱいの笑顔を、見てみたい気もするから。
 きっと自分は、今日もほんの少しの時間、彼の幸せを祈って眠る。

おわり  


 

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