往来で立ち止まって睨み合う子供たちを、何事かという眼で人々が通り過ぎていく。
けれど当人たちは、ただただ互いに相手の存在しか感じ取らず、意地でも自分からは視線を逸らすまいとしていた。
やがて、許嫁が呟くように言った。
「あなたなんか、嫌い」
七瀬はその言葉にかすかに嗤った。
持ち前の穏やかな口調と、優しげな声音で告げる。
「俺も、お前なんか嫌いだよ」
言葉にすれば、ストンと納得した。
そうだ、自分はこの許嫁が嫌いだ。
だからこれほど苛立つのだ。
今まで誰かを嫌いだと思ったことなどなかったから、気づかなかった。好きだとか嫌いだとか、そんなことを考えるほど関心を向けた相手などいなかったから。
「――いい加減に離せ」
許嫁が、今度ははっきりとした声で言った。
そういえばまだ腕を掴んだままだった。
同時に、青ざめていたその顔が多少さっきよりはマシになっていることにも気づいたが、それはもはやどうでもよかった。
目下の問題は、この口と態度の悪さだ。
『月加ちゃんね、あまり思っていることを話してくれないの』
頭の中に、許嫁の保護者である紅の言葉が蘇る。
つい先日訪ねてきた折、当人が席を外している間に、ほぼ一方的に話されたことだ。
『きっとまだ、わたしたちに遠慮しているのね……。話しかけたら、ちゃんと答えてくれるんだけど、何が欲しいとか、どうして欲しいとか、そういうのがなくて。遠慮もあるでしょうけれど、もともと内気で、自分の気持ちを言うのが苦手なのかもしれないわ』
今なら、鼻で笑ってその意見を否定やっただろう。
これのどこが内気なのか。
年上であるこちらを堂々と睨みながら、嫌いだの何だのズケズケと言ってのける、これのどこが。
どうせ車に乗らないと言ったのだって、本当は遠慮したわけではないだろう。単なるわがままか、こちらに対する反発心からに決まっている。
つくづく周りの、この許嫁に対する認識はおかしい。
そう思いながら、七瀬は手を離してやった。
大人たちの手前、体調の悪そうな許嫁を一人で帰すわけには行かないと考えていたが、嫌いだと認識した相手に親切にしてやる必要はない。この許嫁がたとえ行き倒れたとしても、もう知ったことか。それで大人たちが自分を責めるというのなら、勝手に責めればいい。
なんなら開き直って言い返してやってもいい。
『好きで一緒に行動していたわけじゃない』
『お前らが一歩的にこのチビを押しつけておきながら、全責任を俺にとれというのはあまりに勝手じゃないのか』
そんな風に、これまでずっと手のかからなかった聞き分けの良い跡継ぎが、突然反抗したら、連中はどんな反応を返すだろうか。
それでもこの不幸を背負った憐れな少女のほうを思いやり、彼女にとっての最良を真っ先に考え、こちらを責めるのだろうか。
紅の声が追いかけてくる。
『七瀬君……、月加ちゃんのことお願いね。きっと年の近いあなたになら、何でも話せるようになるんじゃないかと思うの』
(俺はそんなこと望んでない)
誰も自分の気持ちなど訊かない。必要としていない。
拒否するとは考えず、聞き分けよく頷くことしか予想していない。
『あなたは聡明な子だわ。月加ちゃんも、そうなの。同じ年の子よりもずっと、色々と考えてしまうの。だからね、――――』
(黙れ)
『だからね、きっと。あなたたちはお互いを理解できるわ。月加ちゃんもそうだけど……あなたにも、本心を打ち明けられるような相手が必要なのではないかしら』
(黙れ。あなたに俺の何が分かる。知ったげに物を言うな)
頭痛がする。
警告のように鳴る。
耐え切れぬ痛みに自分が壊れてしまう前に、白玉を抱きかかえなければならない。あれは温かい。涙が出るほど温かくて、陽だまりの匂いがする。柔らかな白い毛を撫で続けると、次第に痛みは引いていく。誰の声も聴こえなくなる。ただ白玉と自分だけがそこにいるような気になって、安心する。
目を閉じて、白玉の存在だけを感じていると、もう誰の声も追ってこない。
だから白玉のもとに帰らなければ。
白玉だけが、きっと自分の帰りを待っている。
許嫁が人ごみの中へ歩き出すのを最後まで見送らず、七瀬は正反対の、自分の家の方角へ歩き出した。
その寸前、色素の薄い髪が、陽の光に透き通るように輝いたのを見た。確かにその髪は、母親が褒めていた通り綺麗だった。それだけは、認めた。
「――――おっと、ちょっと待って下さいよ」
急に、若い男の声が真上から降ってきた。
考え事をしていたせいで気づかなかった。
顔を上げると、いつの間にか二十代前半の男が立ちはだかっていた。見知った顔だった。
「ハイハイ、若様。一緒に来てくださいネ」
「は……?」
男は軽い口調で告げて七瀬の手をとると、今来た道を戻り始めた。
「なにを……」
「デートなんだから、ちゃんと最後までエスコートして下さいよ。うちの大事なお嬢さん」
最後の一言で、彼は顔だけ振り返って笑った。
すぐに前に向き直ったその後ろ頭を、七瀬は忌々しげに睨みつける。
そんな素顔を見られても、もうかまうものかと思いながら。
『あんた人生つまんなくない?』
思いのほか突き刺さったクラスメイトの言葉が、今も胸の奥で不穏にざわめいている。
――――確かに波立たぬ人生はつまらない。
だから、もう自分を取り繕うのは止めようと思った。
そもそも今この場で、許嫁の世話係などという極めてどうでもいい相手に、良い子であろうとする必要もない。
そうあろうとするならば、即刻あの要りもしない許嫁を回収して仲良く手を繋ぐなりして帰らねばならない。そんな馬鹿げたことはしたくない。もう十分だ。関わりたくはない。これ以上、苛立たされたくはない。
誰がなんと言おうとどう思われようと、七瀬はもう許婚をやめる気でいた。
大人たちを納得させることさえできれば、またそんなものにはわずらわされぬ日々が戻ってくる。
自分を取り繕うことをやめたら、それはそれで面倒なことになるかもしれないが、それでもあの苛立たしいだけの人間を自分の人生から追い出せるのなら、ついでに窮屈なだけの、つまらなかった日々が変わるなら。
あんな気に食わない人間のために、望んでもいない許婚などという馬鹿げた立場に置かれるのは我慢がならないと、お前たちに良いように利用されるのはご免だと、はっきり口にしてやろう。
それが自分の本心なのだと。
「あ、いたいた。お嬢さーん」
手を引きながら前を歩く男が声を上げたので視線を向けると、立ち止まってこちらを訝しげに見ている許嫁の姿を見つけた。
雑踏の中で、その姿はやはりどこか浮いて見えた。
「何でいるの……?」
その疑問は、彼女の世話係である男に向けられていた。
男は七瀬の手をようやく離しながら、にこりと笑った。どこかで見たような、人好きのする笑顔だった。
「いや、お嬢さんたちを送ってきた後、この近くで買い物してたんですけどね。本家のお手伝いさんから、お嬢さんが具合悪くなったって知らせを受けまして。こうして駆けつけたわけです。若様が俺にも連絡するように、お手伝いさんに言ってくださったんですよ。ね」
「向こうがそうしましょうかと言ったから、そうして下さいと答えただけです」
七瀬はにこりともせず、淡々と説明した。
男はいつもとは違う、愛想のかけらもない本家の跡継ぎの様子に、意外そうに瞬きした。
けれど、それには触れずにこう返してきた。
「でも、連絡が来たことには変わりないですから。ありがとうございました」
軽くお辞儀までされたときだった。
聞きなじみのある、落ちついた別の男の声がかけられた。
「おや……。ずいぶんと駆けつけるのが早い奴がいますねぇ」
「立原さん」
七瀬が呟くように名を呼べば、本家のお抱え運転手は、こちらに向かってニコリと笑った。人好きのするそれに、もう一度許嫁の世話係を見上げる。
どこかで見たような気がしたが、この男は自分のところの運転手に、どことなく笑顔や雰囲気が似ているのだ。
「桧山君、久しぶりだね」
「……はぁ、ドオモ」
「本家に寄ったときには顔を見せにおいでって言っておいたはずだけど、きみはなかなか来ないなぁ」
「はぁ、そうっスね……気が向いたら」
許嫁の世話係は右から左に聞き流すような返事をした。
先ほどまでの快活そうな雰囲気はどこにもない。苦手なものに遭遇してしまった、といった渋い顔をしている。
どういう関係だ、と思いながら、ふと許嫁のほうを見下ろせば、自分と同じように不思議そうな顔をして二人を眺めていた。
すっかり顔色は元に戻っている。
いったい何が原因であんな青い顔をしていたのか、今さら疑問に思う。映画の冒頭に苦手なものでも映っていたのだろうか。
ただ単に、急に体調が悪くなっただけなら別に気にしないが。
(……“気にしない”……?)
何を当たり前のことを。何が原因だろうが、自分には関係のないことではないか。
自分で思ったことに自分で突っ込み、七瀬は許嫁から視線を逸らした。
けれど、次の会話でまた注意を向けてしまう。
「俺のことはもういいとして、お嬢さん具合は?顔色は大丈夫そうですけど」
「ちょっと気分が悪くなっただけだから……もう平気」
「どれ」
世話係は膝を折って、彼女の前髪をかきあげた。
その白い額に、自分の額をくっつける。
「……うーん、熱はないみたいですね」
七瀬は顔にこそ出さなかったが、かなり驚いた。
(こいつらは……何をやっているんだ?)
許婚である自分の目の前で。
そんなことをする権利は、その生意気な腹の立つちびっこに触っても良い権利は、たかが世話係のお前なんかにはないはずだ、と七瀬は思った。
思って、……世間一般的には嫉妬と呼ばれるのではないかと思われる感情に、愕然とする。自分の心は、いよいよイカレてきたのかもしれない。
大きな矛盾が自分の中に生まれつつある。
早く帰って許婚をやめる件を親に告げ、白玉をかまわなければ。
おかしな独占欲に侵される前に。
「立原さん、帰りましょう」
「はい。……それで、お嬢さまはどうなさいます? 坊ちゃまとご一緒に本家に戻られますか?」
向こうは向こうで迎えが来ているのだ、放っておけばいい。誰が一緒になど帰るものか。これ以上面倒を見てやる必要などない。
七瀬は舌打ちした。
はっきり、しっかりと。
心の中におさまらず、完全に音に出ていた。
運転手のびっくりしたような視線は無視して、まだ世話係と顔の近い許婚に問いかける。にこりともせず、これまで自分でも聞いたことがないほどの、冷たい声音で。
「お前は、歩いて『戻る』んだろう?」
許嫁は口を一瞬引き結び、ギロリとこちらを睨んできた。
自分たちは、まともに視線が交わるたびに睨み合うことしかしていないのではないか、と思いながら七瀬も睨み返す。
――――自分が歩いて戻ると豪語したのだ、実行してもらおうではないか。
ちなみに映画館から本家まではたいした距離ではないが、許婚の家までは歩けば四十分以上かかるはずだ。足の弱い人間にはキツイ道のりだろう。
もちろん車ではなく電車やバスに乗ればいいだけの話だが、『歩く』と言ったのだから、それ以外は認めない。せいぜいふらつきながら自分の意固地を後悔して帰ればいい。
七瀬はふわりと微笑んだ。
それはそれは意地の悪い微笑みだったと、後に許嫁の世話係に言われることになるのだが、それはまた別のお話。
トドメとばかりに言った。
「お前、まさかできもしないことを意固地になって言っていた、なんてことはないだろうな」
「……あ、あるわけないでしょう!?」
その意外な大声に驚いたのは、挑発した七瀬だけではなかった。
「お嬢さん」
「お嬢さま……」
普段は大人しく物静かな少女が、悔しげな、負けず嫌いそのものの表情で年上の許婚を睨みつける姿に、大人二人はびっくりした様子でまじまじと眺めていた。
が、世話係のほうがハッと我に返ったように、「いやいや、ちょっと待って下さいよ」と割って入る。
「なにを無茶なことを。お嬢さんは足が」
「歩く分には支障ない」
彼女はきっぱり言い切った。
「そりゃ短時間でしょ! なにムキになってんですか。らしくもない」
「……らしいってなに?」
「え?」
「わたしのことなんかロクに知らないくせに」
低く言い捨てて、背を向けてスタスタと歩き出したその潔ぎ良さには、思わず七瀬も感服した。
まったく自分の許婚は、見事な負けず嫌いらしい。
ためらいもなく雑踏に消え行く彼女と、それを慌てて追いかける世話係を見ていたら、何かが腹の奥底からふつふつと込み上げてきて、たまらず身体を折り曲げた。
運転手が訝しげな顔をした、そのときだった。
「くっ……、あはははは!」
七瀬は腹を抱えて笑った。
久しぶりに、声を上げて笑った。
「坊ちゃま……」
心底おどろいたという顔の運転手に、七瀬は笑みを浮かべたまま、目を細めて話しかける。
「立原さん、あれのこと、どう思います?」
「……お嬢さまのことですか? ……さぁ、私はまだよく存じ上げませんので。ただ……、意外に元気の良い、素直な方ではないかと」
運転手は困惑したような口調で答え、それから確認するかのように訊いてきた。
「坊ちゃまは、あのお嬢さまのことをお気に召されたのですね?」
「まさか」
七瀬は鼻で笑って否定した。
「生意気だし、意固地だし、挑発に簡単に乗るような馬鹿だし、あれのせいで周りがうるさいし、許婚であることに俺には何のメリットもない、迷惑被るばかりで、気に入るどころか視界に入るだけで目障りだと思いますよ」
「…………………」
幻聴だろうか、と運転手が呟くのが聞こえたが、七瀬は無視して今度は独り言のように呟いた。
「……だけど、手放すのは惜しいかもしれない」
苛立つし、わずらわしくもあるが。
いや、だからこそ。
『あんた人生つまんなくない?』
(ああ、つまらないね)
だからこそ、あの生意気で腹立たしい許嫁を苛めて苛めて苛めつくして、いつか大泣きさせて嘲笑うその日まで―――――手放さずに傍に置いておこう。
それはとても、心躍る考えだった。