「月ちゃん、眠ってていいわよ」
やさしい声がした。
すぐ隣から降ってくるその声に、月加はすねたように返す。
「うーちゃんいないと眠れない……」
誕生日プレゼントに買ってもらったうさぎのぬいぐるみ。眠るときも出かけるときもいつも一緒だったのに、飛行機に乗る前、泊まっていたホテルに置き忘れてしまった。
どうして忘れてきてしまったのだろう。
後悔する月加に、前の席にいる人は約束してくれた。
「こっちでの仕事が終わったら、必ずうーちゃん迎えに行くから、それまではママのドへたくそな子守歌だけで我慢しような」
それに月加は「むー……」と唸った。
子守歌は好きだけれど、うーちゃんに抱きついて聴くほうがもっと好きだ。あの白いもふもふのお腹に触りたくて仕方ない。
隣にいるやさしい声の人が、前の席の人に言った。
「巽さん、確かにわたしはあなたより歌が下手よ。でもドへたくそじゃないわ」
「俺のほうが上手いってのは認めるんだな。よし、だったらこれから月加の子守歌は毎日俺が歌う」
「ズルイ! 私も歌うの! ねー、月ちゃん、ママのお歌も好きだよねー」
「そんなことないよな、月加はパパが毎日歌うほうがいいよなー」
「巽さん、ちょっと上手いからって調子に乗らないで。あなたは黙って運転してればいいのよ」
「はいはい。コワイ奥さんだね」
そう言いながらも、整った横顔は楽しそうに笑っていた。
月加はうーちゃんの不在にがっかりしながら、両親二人の会話を黙って聞いていた。それが次第に子守歌がわりになってくる。
ウトウトしながら思った。
――――パパの横顔はとてもカッコイイ。前から見ても、後ろから見ても、どんな男の人よりカッコイイ。モデルさんみたいだね、って知らないおばさんから声をかけられたこともある。道行く他の人にも自慢したくなった。
ママも美人。つやつやの黒髪。パパ似の茶色い髪も気に入っているけど、ママの黒髪にも憧れる。ママはパパ以外の人から、『ちょっとしんぴてきな美人』とよく言われる。でもパパは『中身はただの天然ボケ』って言う。それはどちらも合っている。ママはしんぴてきな美人だけど、中身はかわいい。パパはかわいいなんて言わないけど、きっとそう思っている。
二人はとても仲良しで、何万年待っても、ママからパパを奪うことはできそうにない。
ママのことは大好きだけど、ときどき『しっと』する。
だってハルもママのことが好きなんだもの。パパとおんなじ。何万年待っても、こっちを見てくれそうにない。ママはズルイ。
せめてママに似ていたらなぁ、と月加は思いながら、隣のやわらかな腕に抱きついて寄りかかる。すごく落ち着く良い匂いがした。
うーちゃんはいないけど、ちゃんと眠れそうだった。あたたかい体温を感じ、二人の会話を聞きながら目を閉じる。
車は街灯のない真っ暗闇を走っていたけれど、二人が一緒だから怖くなんてなかった。むしろ安心しかなかった。月加は幸せだった。
たしかに、その数分後までは幸せだった。
* * *
真夜中に目覚めると心臓がどくどくと煩く鳴っていて、月加は自分がまた涙を流しながら寝ていたことに気がつく。
死んだ両親の友人であるという人たちが用意してくれた、お姫様の住処みたいな、自分にはあまり似合わない部屋の天井は、暖かな色の明かりでほのかに照らされている。
目が覚めるたびに思う。
どうして自分はここに一人でいるのだろう。
さっきまで見ていた夢があまりにも現実に近いので、ついそんな風に思ってしまう。
月加は部屋の中に山ほど置かれているぬいぐるみを、ベッドの上から見下ろした。
ここにはうーちゃんより小さいぬいぐるみしか置かれていない。それらはすべて、自分を引き取る前に保護者たちが用意してくれていたものだ。
うーちゃんと同じ大きさのものは、世話係の運転する車の中にある。それはうさぎではなくクマで、この部屋のぬいぐるみ同様、名前はつけていない。
あの酔狂な世話係は、そのクマを好きにしていいと、あげると言ったけれど、月加はずっと車の中に置いたままにしている。
この部屋に移動させたら、車に乗っているときにすがりつくものがいなくなる。それにあの大きなクマは隣に人が座っているときには、相手との間の壁にもなる優れものだ。青ざめて震える情けない姿を、たかが車ごときを恐れている姿を見られずにすむ。
保護者たちは、『家の中に持って入ればいいのに』と言う。
彼らは月加がなぜ車中でクマに抱きついているのかを知らない。ただ可愛いから抱きついているのだと思っている。それでいい。訳を知られて、これ以上かわいそうなものを見る目で見られるのはご免だ。あるいは両親を亡くした直後のように、カウンセラーのもとに連れて行かれるのも。
自分の心の内など誰にも覗かれたくはない。
ずかずか踏み入って欲しくはない。
身内でもないのにあれこれと心配してくれる保護者たちには感謝しているし、本当に、心の底から優しい良い人たちだと思っているけれど、月加はときどき激しく彼らの好意や心配を拒絶したくなる。
余計なお世話だ、放っておいて、そっとしておいて、何もしてくれなくていい。
ただ静かに見守ってくれるだけで、十分だから。
そんなふうに恩知らずで身勝手なことを叫んでしまいそうになる。
月加はそのたびに激情を呑み込む。
うずくまって嵐がおさまるまでひたすら堪える。
息をするのも辛くなる。
誰の助けもいらないように早く大人になりたいと願う。
今はまだほんの子供だから、みんな色々と自分に干渉したがるのだ。
だから、きっと大人になったら、誰も見向きもしなくなる。早くそうなればいい。それが孤独になるということだと分かっていても、それでいいのだと月加は思い込む。
自分はいつかたった一人で生きてゆかなければいけない。
この借り物みたいな幸せから、遠く離れて。
月加はベッドの中で小さく丸まった。