七瀬と月加 ―救いの手―(6)

 月加は男の言葉を無視して歩き続けた。
「ねぇ、ちょっと待ってよ。そこの女の子、ちょっとでいいから」
 変にうわずった声がしつこく言ってくるが、立ち止まったら最後である。
 横断歩道が青だったので、バスを待つのは諦めて、反対側の歩道に渡った。男もくっついてくる。
 さっきこの歩道を歩いていた二人連れは、もうずっと遠くにいる。声を発せば振り返る距離だったけれど、月加はそんなことをしようとは――――他人に助けを求めようとは思わなかった。前みたいに、主婦の集団が通りかかるような偶然も期待しない。ただ歩いて男を撒くことだけを考えた。
「もしかして怪しいとか思ってる?やだなぁ、ただちょっと聞きたいことがあるだけなんだ。道を教えてくれないかなぁと思って。だから、ね、ちょっと止まってみようよ。ほんのちょっと、一分、一分だけでいいんだよ?ねっ」
 なにが『ねっ』だ。気持ち悪い。下心が透けて見えている。
 月加はうんざりしながらスタスタ歩き続けた。
 なるべく普通に歩いているように見せかける。気づく人は気づくが、月加の歩き方はやや不自然だ。見えない重石でも引っかけているようだと許嫁は言った。まともに足音を聞いたらすぐに分かるとも。
 この変質者がそれに気づくと非常にマズイ。
 そう思っていると。
「あれ……? ねぇきみさぁ、足どっか怪我してる? 大丈夫? お兄さんが見てあげようか」
 月加は今度こそ音に出して舌打ちした。
 歩調を緩め、男の接近を許してから、振り向きざまに鞄の角で相手の顎を殴りつけてやった。
「うっ……!」  
 男が顎を押さえて呻いているあいだに、月加は足の痛みをこらえて走った。いや、走ったことになるのかは疑問だ。そのくらい不恰好な動きだった。
 まったく忌々しいことだと思いながら、すぐ傍にあった細い路地に入り込む。この辺りの地理には詳しくないので、もっと賑わいのある大通りに出る道が分からない。とりあえず、どうにかして男を撒いてしまうしかなかった。
路地をわずかも行かないところで、男が怒り狂った声を発して追いかけてきた。
「この……待て!」
 変質者としか思えない男にそう言われて大人しく立ち止まる子供がいたら、お目にかかりたいものである。
 月加は路地を真っすぐに進んだ。
 まもなく広い道路に出る。
 住宅街のど真ん中だったが、運の良いことにそこには月加より年上の少年たちがいた。学校帰りと見られる制服姿で会話しながら歩いていたのだが、目の前に飛び出してきた自分を見て、彼らは驚いたように立ち止まった。
「――――」
 月加も驚いた。
 とんだ偶然である。
 三人いる少年のうち、一人は自分のよく知る相手だったのだ。
 思わず足を止めたのが悪かった。
 月加は追いついた男に、鞄を持っているほうの腕を強く掴まれて顔をしかめた。
「っ」
「ちくしょう、なにもしてない内から人を殴りやがって……。こっちに来い!」
 男は怒りで周囲が見えていないらしく、仰天する少年たちの目の前で月加を路地の薄暗がりへ引きずり戻そうとした。
 が、おとなしく捕獲されるような月加ではない。
 ガブリと男の腕に噛みついた。
「いっ!――お、お前よくも」
 月加はすぐさま引き剥がされたが、腕は掴まれたままだった。
 男は激しい怒りによって形相が変わっている。
 殴られる、と男の振り上げた拳を見て妙に冷静に思った。
 よけるのには間に合わない。
 しかし、思わず両目を閉じた月加に覚悟していた衝撃はやってこなかった。
 かわりに聞いたのは男の悲鳴だった。
 驚いて目を開けると、男は地面に倒れていた。その上には、明るい茶色の髪をして、だらしなくネクタイを緩めている少年と、真面目そうな黒髪の少年が乗っかっている。
 どうやら、一瞬の出来事にあっけに取られていた彼らが、我に返って男を取り押さえてくれたらしい。
「大丈夫?」
「これ知り合い?」
 二人に口々に訊かれ、月加は呆然としたまま首を横に振る。こんな知り合いは自分にはいない。
「変質者」
 短く答えると、ああやっぱり? と二人は自分たちの下に仰向けに倒れて目を回している男を、呆れた顔で見下ろした。一人が携帯を取り出して、どこかに電話し始める。
 内容から、警察に通報したのだと分かった。
 月加はさっと青ざめた。
「あの」
「安心して。警察の人、すぐ来てくれるって」
 電話を切った少年に言われた。
 でも、違うのだ。そんな心配をしているのではない。月加は思わず自分の目の前に立っている少年を見上げた。
 目が合った。
 それだけで、たぶん十分だった。

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