七瀬と月加 ―彼の子守歌―(2)

 はたして、七瀬は暗がりに沈むベンチに座って身じろぎひとつせず、教会を眺めている許嫁を発見した。
 なんとなく、ここにいるような気がしていた。
『前に住んでた街の教会に似てる』
 一緒に散歩しているときに、許嫁はそう呟いた。以前のことを話すのを聞いたのは、初めてだった。
 教会の敷地にはたくさんの薔薇が植えられており、ベンチとブランコがあった。
『そこにもブランコがあったし、薔薇もたくさん、すごく綺麗に咲いてた』
 それから教会の前を通るたびに、じっと眺めながら歩いていた。あまりに見ているので、『門が開いているし、入ってみれば』と言ってやったが、許嫁は首を横に振った。
 七瀬はそれ以上勧めなかった。
 入りたいけれど入りたくない、矛盾した思いが隣を歩く年下の許嫁の中にあることを、なぜだか察することができた。
 だから、それからはもう何も言わずに、教会を眺めながら歩く許嫁の、まぶしい光でも見つめるかのような眼差しをただ自分も追いかけて、ゆっくりと歩いていた。
 その決して踏み込まなかった敷地の中、教会を斜めに見上げる位置に、許嫁の座っているベンチはある。
 明るいうちに敷地を囲む鉄柵越しに見たときには、薔薇の生け垣に囲まれた綺麗な場所だと思ったが、今は明かり一つないために、ぼんやりと浮かぶ教会の白い外壁の他はすべてが闇に沈んで見え、いかにも何かが出そうな不気味な雰囲気だった。
 よくもまぁ、こんな暗がりにいる人間を敷地の外から発見できたものだと、七瀬は己の視力に感心する。同時に、暗闇が苦手なくせにあんな所に一人きりで座っている許嫁にも、感心だか呆れだかわからない思いを抱く。
 七瀬は自分の許嫁の弱点を、もう一つ残らず把握している。あれは、両親と共に遭った事故が原因で、車に乗ることを怖れている。何かすがりつくものがないと乗っていられず、怖いのだと人に思われるのを嫌い、自分が隠れるほど大きなぬいぐるみを同乗させている。二度目に一緒に乗ったとき、ぬいぐるみの腹に回された白い手が震えていることで気がついた。
 事故に遭ったのが夜だったから、暗闇も怖がっている。出会ったばかりの頃は映画館の暗さにも怖じけづき、一人勝手に外に出ていた。
『お嬢さん、暗いのダメなんですよ。ホラ、この間の日曜日、若様いっしょに映画館に行かれたでしょう? あのとき具合が悪くなったの、たぶんそのせいです。で、以来、俺と映画観に行って暗がりに慣れる特訓中なんです。だから克服するまでは、映画館とかお化け屋敷とか、暗いとこは避けてあげて下さい』
 えらくお節介でお喋りな世話係だと、七瀬は思った。
 それから何ヶ月も経った頃、許嫁を遊びに誘ったとき、『行きたいところは?』と尋ねたら、彼女は『映画』と答えた。どうやら映画館の暗闇には慣れたらしく、最後まで大人しく隣に座っていたのだが、外に出て昼の日差しを浴びた瞬間ホッと息をついていたのを覚えている。
 そうして見事あの負けず嫌いは映画館の暗闇を克服したようだが、夜の本物の暗闇はまた違うのか、いつも日が暮れる前に帰宅する。どんなに七瀬の母親が『もう少しいたら?』と引き止めても。基本、大人たちには従順なくせに。
 だから七瀬は、今こうして月もない真っ暗闇の広がる夜に、それが何より怖いはずの許嫁が一人で外にいるのは、その心の内側でよほどのことが起きているのだろうと感じた。
 ――――まったく面倒な、世話のかかる奴だ。
 ため息を、一つ。
 七瀬はわずかに開いていた門から、敷地内に足を踏み入れた。
 面倒に思うのならば、放っておけばよいのだと心の中で声がしたが、不思議なことに足は真っすぐ自分の許嫁のもとを目指していた。

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