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序章

 馬車の車輪と、蹄の音が聞こえる。
 ――――彼が帰って来た音だ。
 そう思ったところで、エリスは目を覚ました。
(今のは夢?)
 ぼんやりと薄暗い天井を見上げながら考えたけれど、もう鳥の鳴き声くらいしか聞こえてこないので分からない。
 エリスは柔らかなベッドから抜け出して、そっと窓辺に立った。重いカーテンをわずかに開けて、外を覗き見る。
 まだ夜が明けきっていないので辺りは薄暗い。
 その中で、エリスは玄関前に停まっている馬車といくつかの人影を見つけた。先ほどの物音は夢ではなかったようだ。
おぼろげな人影では誰が誰だか分からなかったけれど、きっと彼はあの中にいるはずだ。夫である彼は、たいてい昼近くに王宮に出かけ、こんな風に翌日の陽も昇りきらぬ早朝に帰ってくるから。残る人影は、彼を出迎えた使用人たちだろう。
 エリスは彼らが家の方に消えるのを見届けると、冷え切ってしまった身体でのろのろとベッドに戻り、布団にもぐり込んで目を閉じた。
(ヘルムートさま……)
 彼の顔をまともに見たのは、一体いつのことだろう。同じ屋敷で暮らしているのに、まったくと言っていいほど顔を合わせることがない。
 エリスは彼の顔を思い浮かべようとした。
 すると、ふと友人であるコレットの言葉が脳裏に蘇った。

『あの瞳をまともに見ちゃダメよ』

 あれは忘れもしない、二年前の初夏のこと。
 ある夜会でエリスは彼の姿を見かけた。着飾った大勢の男女で賑わう、きらびやかな会場。その中で、彼の美貌はひときわ衆目を集めていた。華やかで端正な顔立ちに、均整のとれた体つき。深く静かな眼差しに、柔らかな微笑。
 まるで絵画から抜け出してきた天使さまのようだった。
 ことに、そのアメジストを思わせる珍しい色の瞳は見る者に鮮烈な印象を与えていた。
『あの瞳を見た女性はね、たいてい彼に心を奪われるって有名なのよ』
 コレットはそう言って笑った。
『私は好みじゃないけど、まぁ確かに神秘的で綺麗よね。……って、エリス聞いてる?』
 うん、と一応返事はしたものの、エリスが他の令嬢たちと同じく彼から目を離せずにいたものだから、コレットは再び忠告の言葉を口にした。
『いいこと、エリス。いくら美形で素敵に見えても、アレだけは止めておくのよ。あの人、誰にも本気にならないってことでも有名なんだから』
 そして、声をひそめてこう付け加えた。
『どんな女性とも一夜限りの関係しか持たないらしいわ』
 エリスが驚いて友人を見ると、彼女は広間を眺めながら言葉を続けた。
『だけど、皆そんな噂があっても気にしないのね。ほら見て、彼に視線を送っている女性があちこちにいるわ。何もわざわざあんな面倒な男に惹かれなくてもいいのに。自分なら愛されるかもしれないって、そんな期待でも持ってるのかしら』
『―――でも』
 でも、その噂が本当だとは限らないわ。
 いつも大人しいエリスが控え目にそう反論すると、コレットはちょっと意外なものを見るような目をした。
 それから特に気分を害した風でもなく、『まぁね』とあっさり頷いてくれた。
『確かに噂を鵜呑みにするのは良くないわ。でも事実だろうとでたらめだろうと、そんな不誠実な噂が立つような男はダメよ。エリスにはあんな目立つタイプじゃなくて、こう……いかにも真面目で優しくて穏やかな人が似合うと思うわ』
 だけど、コレット。ヘルムートさまだってすごく優しいし、穏やかな人なの。
 エリスはそう言おうとしたけれど、それより先にコレットは飲み物を貰いに行ってしまった。
 だから結局、言いそびれてしまったのだ。
 実は彼と以前からの知り合いであるということも―――――。

 

 その初夏の夜会から一年後、エリスは彼と結婚した。
 恋人でもない、本当にただの知人同士だったのに、ある日とつぜん彼に「お嫁においで」と言われて。
 エリスはそのとき少し複雑な状況にいたので、突然すぎる展開に頭が追いつかず、彼に「どうして?」と求婚理由を問うこともなく受け入れた。
 そして、ぼうっとしている間に結婚式を経て、今に至る。
 なんだかよく分からないうちに彼の妻になったわけだが、一つだけ確かに分かっていることもある。
 それは、自分が彼から愛されていないという事実だった。
 エリスは結婚後まもなく、彼が以前と同じように多くの女性たちと夜を共にしているという噂を聞いた。お喋りな女中や、心配してくれたコレットの口から。
 その時はもう、エリスは初夏の夜会の時のように「ただの噂」だと思うことができなかった。
 彼が家を留守がちにしていることは事実だったし、浮気される要因もあったから。つらくても、本当のことなのだと認めるしかなかったのだ。
 お喋りな女中は、その時エリスの心を覗いたかのようにこう言った。
『お可哀そうに。奥様は旦那様に愛されていらっしゃらないんですね。旦那様が外出ばかりなさるのも、きっと奥様とご一緒にいたくないからだわ』
 ―――――と。
 エリスは時どき思う。
 愛もなく彼に抱かれる女性たちは哀れだけれど、きっと一度も抱かれたことのない自分よりも、彼女たちの方が彼にとっては価値のある存在なのだろうと。
 そう、彼の妻であるはずのエリスは、結婚した一年前の夜からただの一度も彼に抱かれていないのだ。

 

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